暗闇の中で
汚れたシャツを纏い、吐瀉物の詰まった袋を提げたまま、秋生はオフィスビルへ向かった。
自動ドアが開くたびに、空調の効いた清潔な空気が鼻を突き、その対比がシャツに残る「彼女の生」をより鋭く際立たせる。
オフィスに入ると、案の定、同僚たちが眉をひそめた。
「おい、秋生……どうしたんだよそのシャツ。よれてるし、その手元の袋……何持ってんだ? 汚いな、捨てろよ」
秋生は小さく、声を潜めて呟いた。
「……朝、電車でさ。知らない女の人に吐かれちゃって」
周囲は一瞬にして硬直した。同僚の口から出た言葉は「大丈夫か?」ではなく、「捨てろ、汚い」だった。彼らは秋生が何を感じているかなど興味がない。ただ、自分の視界の中に「不快なもの」が入り込んでいる事実だけが我慢ならないのだ。
「そんなの痴漢と間違われるぞ、変態かよ。早く捨てろ、不衛生だ!」
秋生は無言で立ち尽くした。手には彼女の嘔吐物がこびりついている。洗えば、彼女の痕跡は消える。しかし、この手は、彼女が苦しんだその瞬間の温度を、まだ覚えている。
ビニール袋を会社のゴミ箱にねじ込んだ。無慈悲なシステムが、彼女の「生」をゴミとして処理していく。同僚たちは、これでようやく安心したかのように背を向けた。
秋生は自席に座り、洗いたくない手をじっと見つめた。
もしこれが昭和であれば、違ったはずだ。
同じ状況を話せば、上司や同僚は肩を叩き、「お前も年頃だし、運命的な出会いかもな」「どうした、何か相談に乗るか?」と笑いながら輪に入れてくれただろう。そこには、逸脱を面白がり、個人の衝動を「人間味」として許容する土壌があった。
しかし、今は違う。
「リスク」と「コンプライアンス」という名の鋭利な刃物が、誰かの異常な行動を真っ先に排除する。同僚たちの目は、秋生を助けようとするのではなく、秋生という人間を自分たちの「清潔な組織」から切り離すための診断を下している。彼らが教えるのは「対処法」ではなく、「関わりを絶つ方法」だけだ。
秋生の苛立ちは、オフィス全体を支配するこの無機質な空気に向けられた。
誰かに当たれば、「最近の秋生はおかしい」という噂が広まる。相談できる場所はなく、理解者はいない。ただ、彼らの管理という名の「隔離」が、秋生を追い詰めていく。
「……僕はおかしいんじゃない。世界が死にかけているんだ」
秋生は心の中で叫ぶ。
今の世の中は、人間から「狂気」を奪い取り、効率的な部品に変えようとしている。誰かを深く愛すること、見ず知らずの他人の吐瀉物さえも自分の人生の断片として引き受けること。そんな物語を、彼らは「変態の戯言」として処理する。
最近、上司や同僚から言われるようになった。
「秋生、少し落ち着け。お前は最近、どうにかしてるぞ」
それは「お前を心配している」という偽善の皮を被った、実質的な「社会からの警告」だ。システムに従順になれ、個人の感情を殺せ、清潔で無害な存在になれ。それができないなら、お前はもう「こちら側」の人間ではない。
秋生はキーボードを叩く。彼らが「どうにかしてる」と言うその裏で、秋生は着々と物語を書き進める。
彼らが「ゴミ」として捨てたものは、僕にとっては「宝物」だ。
彼らが「排除」しようとするその狂気こそが、僕たちが人間として生きるための最後の拠り所なのだと。
秋生は洗いたくない手を拳に握りしめた。
世間が「変態」とレッテルを貼り、静かに僕を殺そうとするなら、そのレッテルを剥がして、彼らの顔に貼り付けてやる。この苛立ちは、やがて来る、システムへの逆襲の火種だ。
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