暗闇の中で
朝日が昇り、総武線の車内はオレンジ色の光に包まれていた。昨日までの澱んだ空気とは違う、どこか少しだけ温かい空気が漂っている。
電車が揺れるたび、秋生の肩をトントンと叩く手が揺れた。
「……あの、昨日は、どうもありがとうございました」
聞き覚えのある声。秋生が顔を向けると、そこには昨日の駅のホームで、汚物と共に己の弱さをさらけ出した彼女が立っていた。彼女は清潔な服に身を包み、昨日の青ざめた表情とは違う、真っ直ぐな瞳で秋生を見ていた。
秋生は心臓が口から飛び出しそうなほど高鳴っていた。手が、肩が、抑えようもないほどガタガタと震えている。
「あ……いや、どういたしまして。本当に……」
「震えていらっしゃいますけど、どこか具合でも悪いのですか?……もしかして、昨日の、あの」
彼女は心配そうに秋生の顔を覗き込んだ。その距離が近すぎて、秋生の理性は崩壊寸前だった。
「……大丈夫です。ただ、その……昨日のことがあって、その、緊張しちゃって。それに、僕、正直に言ってしまうと、昨日、あなたに会ってから、ずっと……あなたのことが好きでたまらなくなってしまって」
車両のガタンゴトンという音が一瞬、遠のいた。彼女は戸惑い、一瞬だけ言葉を詰まらせた。今の時代なら、ここで「ストーカー」や「変質者」というレッテルが貼られる場面だ。だが、彼女は違った。
「……今日は本当に、陽気がいいですね」
彼女は、秋生の剥き出しの告白を、柔らかく、しかし確実に受け流した。その所作には、相手を追い詰めないための、大人の優しさと余裕があった。秋生は、彼女のその賢明な気遣いに甘えるように、溜まっていたものを吐き出した。
春香のこと。失明しているという事実が、どれほど自分の人生の選択肢を狭めてきたか。どれほど惨めで、どれほど孤独だったか。そして、彼女が昨日見せたあの生々しい姿の中に、どれほど救いを見出したか。
秋生は涙を流した。男が人前で泣くなど、今の合理的な社会では許されないエラーだ。しかし、彼女はハンカチを差し出すこともせず、ただ静かに秋生の言葉を聞き続けていた。
「……秋生君、そんな風に言わないで」
彼女の声は、朝の光のように穏やかだった。
「目が見えるとか見えないとか、そんなこと全然関係ないわ。一生懸命に生きてるじゃない。昨日のことだって……私は、秋生君のあの誠実さに、むしろ救われたくらいよ。頑張ってる人には、ちゃんと誰かが見ているものなのよ」
秋生は、その言葉に崩れ落ちそうになった。かつての時代には、こんな風に人間を肯定する言葉が、電車の中や居酒屋の片隅に当たり前のように溢れていた。障害があるからと自分を卑下する男を、理屈抜きで抱きしめるような言葉。
「……頑張ってる、ですか」
「ええ。そうよ。だから、そんなに悲しい顔しないで」
電車は秋生の降りる駅に滑り込む。ドアが開く。二人の間には、何ら「契約」も「約束」もない。しかし、昨日までの冷たいシステムの中で生きてきた秋生にとって、今のこの会話こそが、何よりも確かな「現実」だった。
秋生は涙を拭い、彼女に深く頭を下げた。
「あの……また、明日も乗りますか?」
「ええ。この時間の電車、好きだから」
彼女は少し照れたように笑って、そう答えた。
秋生はホームに降り立ち、ドアが閉まるのを眺めていた。手には、昨日彼女の吐瀉物を拭ったシャツの残り香が、まだかすかに残っている気がした。
それは、どんな高機能な端末も再現できない、昭和の通勤路に咲いた、不器用で、泥臭い、名もなき幸福の形だった。秋生は思う。この記録を残すために、僕は小説を書くのだ。この熱を、誰にも盗まれないように。
電車が揺れるたび、秋生の肩をトントンと叩く手が揺れた。
「……あの、昨日は、どうもありがとうございました」
聞き覚えのある声。秋生が顔を向けると、そこには昨日の駅のホームで、汚物と共に己の弱さをさらけ出した彼女が立っていた。彼女は清潔な服に身を包み、昨日の青ざめた表情とは違う、真っ直ぐな瞳で秋生を見ていた。
秋生は心臓が口から飛び出しそうなほど高鳴っていた。手が、肩が、抑えようもないほどガタガタと震えている。
「あ……いや、どういたしまして。本当に……」
「震えていらっしゃいますけど、どこか具合でも悪いのですか?……もしかして、昨日の、あの」
彼女は心配そうに秋生の顔を覗き込んだ。その距離が近すぎて、秋生の理性は崩壊寸前だった。
「……大丈夫です。ただ、その……昨日のことがあって、その、緊張しちゃって。それに、僕、正直に言ってしまうと、昨日、あなたに会ってから、ずっと……あなたのことが好きでたまらなくなってしまって」
車両のガタンゴトンという音が一瞬、遠のいた。彼女は戸惑い、一瞬だけ言葉を詰まらせた。今の時代なら、ここで「ストーカー」や「変質者」というレッテルが貼られる場面だ。だが、彼女は違った。
「……今日は本当に、陽気がいいですね」
彼女は、秋生の剥き出しの告白を、柔らかく、しかし確実に受け流した。その所作には、相手を追い詰めないための、大人の優しさと余裕があった。秋生は、彼女のその賢明な気遣いに甘えるように、溜まっていたものを吐き出した。
春香のこと。失明しているという事実が、どれほど自分の人生の選択肢を狭めてきたか。どれほど惨めで、どれほど孤独だったか。そして、彼女が昨日見せたあの生々しい姿の中に、どれほど救いを見出したか。
秋生は涙を流した。男が人前で泣くなど、今の合理的な社会では許されないエラーだ。しかし、彼女はハンカチを差し出すこともせず、ただ静かに秋生の言葉を聞き続けていた。
「……秋生君、そんな風に言わないで」
彼女の声は、朝の光のように穏やかだった。
「目が見えるとか見えないとか、そんなこと全然関係ないわ。一生懸命に生きてるじゃない。昨日のことだって……私は、秋生君のあの誠実さに、むしろ救われたくらいよ。頑張ってる人には、ちゃんと誰かが見ているものなのよ」
秋生は、その言葉に崩れ落ちそうになった。かつての時代には、こんな風に人間を肯定する言葉が、電車の中や居酒屋の片隅に当たり前のように溢れていた。障害があるからと自分を卑下する男を、理屈抜きで抱きしめるような言葉。
「……頑張ってる、ですか」
「ええ。そうよ。だから、そんなに悲しい顔しないで」
電車は秋生の降りる駅に滑り込む。ドアが開く。二人の間には、何ら「契約」も「約束」もない。しかし、昨日までの冷たいシステムの中で生きてきた秋生にとって、今のこの会話こそが、何よりも確かな「現実」だった。
秋生は涙を拭い、彼女に深く頭を下げた。
「あの……また、明日も乗りますか?」
「ええ。この時間の電車、好きだから」
彼女は少し照れたように笑って、そう答えた。
秋生はホームに降り立ち、ドアが閉まるのを眺めていた。手には、昨日彼女の吐瀉物を拭ったシャツの残り香が、まだかすかに残っている気がした。
それは、どんな高機能な端末も再現できない、昭和の通勤路に咲いた、不器用で、泥臭い、名もなき幸福の形だった。秋生は思う。この記録を残すために、僕は小説を書くのだ。この熱を、誰にも盗まれないように。