暗闇の中で
秋生は、朝の電車で交わしたあの柔らかな会話を胸の奥深くに仕舞い込み、オフィスへと向かった。心臓の鼓動はまだ速いが、不思議と足取りは軽い。明日、またあの彼女に会えたら、今度は何を話そうか。勇気を出して、名前を聞いてみようか。そんなささやかな希望が、今の秋生にとっては、どんな昇給よりも価値のある報酬だった。
しかし、オフィスの扉をくぐった瞬間、その淡い高揚感は現実という名の冷水で洗われる。
「お前、さっきからニヤニヤして、一体何なんだ?」
女史の声は、秋生がかつて親しんだ昭和のそれとは決定的に異なっていた。そこにあるのは、部下に対する関心ではなく、組織の秩序を乱す者への「監視」だ。
「……いえ、別に。ただ、少し良いことがありまして」
「良いこと? お前、最近電車での一件とか、変な噂ばかりだぞ。言っておくけどな、今の時代、障害があるとかないとか関係なく、自分を客観視しろよ。基本給ギリギリの生活で、そんな夢みたいなこと考えてる余裕あるのか? そもそも、お前みたいな人間が、普通に働いている女性とまともに付き合えると思っているのか?」
その言葉は、まるで鋭利なナイフのように秋生の自尊心を切り裂いた。昭和の女史なら、呆れながらも「お前も頑張れよ」と背中を押してくれたかもしれない。だが、今の彼女にとって、秋生の抱く恋心は「身の程知らずの妄想」であり、会社というシステムのリソースを浪費する「リスク因子」でしかない。
「もしその女性に、しつこく声をかけたりしてみろ。即座にストーカーとして通報されるぞ。今の社会は、お前の言うような『純粋な愛』なんて微塵も信じていない。あるのは、属性と経済力によるマッチングだけだ」
女史は冷ややかな目で、秋生の顔を見ようともせずに書類をめくった。
「勘違いするな。私たちは会社として、お前にまともな社会生活を送ってほしいだけだ。変な夢を見て、人生を棒に振るな。分かったらさっさと仕事に戻れ」
秋生は席に戻り、黙々とキーボードを叩いた。
心の中で渦巻く、彼女との約束への渇望。その純粋な思いを、女史の言葉が「身分不相応なストーカー行為」という汚物で塗りつぶしていく。
かつて、仕事と恋は地続きだった。誰かを想う気持ちが、明日への活力となり、それが仕事の成果へと繋がっていた。しかし今、仕事は私生活から完全に切り離された「義務」でしかなく、誰かを愛することは「身の程を知らない愚かな逸脱」とされている。
「基本給ギリギリか……。確かに、今の時代において、愛を語る資格さえも経済力で測定されるのか」
秋生は窓の外を見る。
あんなに温かかった朝の総武線も、今や彼にとっては「リスクの塊」に見える。彼女と話したあの時間さえも、この会社というシステムの中では「時間の無駄であり、社会的なリスク」として管理される。
彼は思う。
昭和のあの頃、おじさんたちが仕事に打ち込めたのは、誰もが「明日、誰かに会えるかもしれない」という希望を、給料明細とは別の場所に持っていたからだ。今の女史や同僚たちは、その希望さえも奪い取り、ただの「労働する機械」として生きろと強要している。
秋生は、誰にも言えない秘密を胸に、キーボードを叩き続ける。
「いいさ。どれほど身分が低くても、どれほど将来が不透明でも、彼女にまた会いたいというこの気持ちだけは、誰にも管理させない」
会社の人間に言えば「ストーカー」と呼ばれるかもしれない。だが、秋生にとってそれは、この冷え切ったシステムに抗うための、唯一の「生きる理由」なのだ。明日、またあの電車に乗る。その決意だけが、彼をこの無機質なオフィスで正気でいさせてくれる、唯一の防具だった。
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