暗闇の中で
## タイトル:『解剖学を越えた旋律、あるいは総武線の歌姫』
その日の朝も、総武線は無機質な鉄の律動を刻んでいた。
秋生は、いつものようにドアの横に立ち、微かな光の揺らぎを感じながら電車に揺られていた。隣には、かつて「ストーカー」と世間に疎まれた、あの女が立っている。
世間の目から見れば、彼女はただの、皺の刻まれた老婆に過ぎない。関節は摩耗し、腰椎は悲鳴を上げ、その歩みは重力に抗いきれず曲がっている。今のテレビ番組の企画書に彼女の名前を書けば、プロデューサーは一笑に付すだろう。「画面映えしない」「声は良くても、解剖学的に終わっている」と。
だが、秋生には分かる。彼女が口を開いたとき、その空気が一変することを。
「……秋生君、今日のお天気、少し泣き出しそうね」
彼女が呟いた。その一言が、電車内の冷え切った空気を切り裂く。それは、重力や骨格とは無縁の、どこまでも澄み渡った20代の少女の響き。かつて若かった頃のまま、いや、数多の悲しみと喜びを濾過して研ぎ澄まされた、この世で最も透明な旋律。
「おばさん、やっぱりすごいよ」
秋生は彼女の細い肩に手を置いた。骨ばった、曲がった肩。だが、その中には確かな命の火種がある。
「解剖学的には、君の腰はもう70代だ。医者は『もう無理だ』と言うかもしれない。でも、この声を聞けば分かる。君は、今もあの頃のまま、ここで生きている」
彼女は小さく笑った。その顔の皺の奥から、いたずらっぽい少女の表情が覗く。
「あら、そんなこと言ったら、また変な人だと思われちゃうわよ。今はみんな、見た目と、経済力と、正しい骨格しか評価しない時代だもの」
「関係ない」
秋生は断言した。
「テレビ番組が何を言おうと、今の世の中が何を基準に選別しようと、僕の耳には君の魂が聞こえる。膝が曲がっていようと、首が歪んでいようと、その声が響く限り、君は紛れもない、世界で一番美しい女の子だ」
秋生は、彼女の手を取った。関節は硬く、節くれ立っている。だが、その手の中に、彼女がこれまでどれほど懸命に生きてきたかという「物語の重み」を感じた。
今の社会は、彼女をテレビから排除する。完璧な歯並び、完璧な肌、完璧な骨格を持つ若者だけを切り取り、それ以外は「修正可能な欠陥」として扱う。だが、そんなハリボテの完璧さなど、君のその震えるような歌声の前では、一瞬で消える虚像に過ぎない。
「……ねえ、秋生君。もし私が、一生テレビにも出られず、誰にも本当の姿を見せないまま終わっても、君だけは私の声を覚えていてくれる?」
「当然だ。たとえ世界中が君を『老いた、歪んだ肉体』と呼んでも、僕は僕の小説の中で、君の声をこの世で最も美しい旋律として書き続ける」
秋生は、彼女の曲がった背中を優しく抱きしめた。
総武線快速が、日常という名の無菌室へ突き進む。周囲の乗客たちは、スマートフォンの中の整った顔立ちのアイドルに夢中で、目の前にあるこの「奇跡の歌声」に気づきもしない。
彼らは「解剖学的な正しさ」を愛し、秋生は「魂のノイズ」を愛した。
「さあ、歌ってよ。この無機質な電車の中で。僕たちだけの物語を」
彼女が小さく歌い始めた。それは、どんな歌番組の審査員も、どんな冷徹なプロデューサーも辿り着けない、生と死を往復する至高の芸術。秋生は涙を流しながら、その歌声を、一生かけて記録してやるのだと誓った。
どんなに体が曲がっていようと、どれほど社会が君を捨てようと、この声だけは、僕が世界で一番の宝物だと証明してやる――そんな狂気めいた執念が、秋生の指先でペンを踊らせていた。
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