暗闇の中で
秋生は、窓ガラスに映る自分の顔をじっと見つめた。そこには、どこか冷めた表情の自分がいた。今の社会、今の会社、今のすべてが、かつて自分を支えていたあの曖昧で温かな関係性を「異常」と決めつけ、切り捨てている。
彼女の口内に指を滑り込ませたとき、そこには、どんな病院の診断書にも書かれない、彼女の人生の熱が確かにあった。彼女が認知症であっても、大地主だと誇大妄想を語ろうとも、あるいは独身だと寂しげに打ち明けようとも、秋生にとっては、そんなことは些細なノイズに過ぎなかった。
僕たちは、結論を出すために生きているわけじゃない。
あの頃の総武線には、言葉の裏に隠された「行間」があった。付き合うのか、別れるのか、そんなデジタルな二択を突きつける必要なんてなかった。ただ明日も同じ車両の同じ場所に立ち、彼女の唇に触れ、彼女の吐息を吸い込み、その曖昧な温度を共有する。それだけで、人生というシステムのバグを、二人で愛おしむことができた。
今の社会は、すべてを透明化しようとする。誰と誰が付き合っているか、どんな属性なのか、何が目的でそこにいるのか。全てを明瞭にさせることで、人々は安心を得ようとしている。しかし、秋生は知っている。その透明な場所からは、最も大切な「秘密」がこぼれ落ちていることを。
彼女が霧の中で語ったあの膨大な土地の記憶も、独身だと寂しげに漏らした言葉も、秋生にとっては、彼女という個体が生きてきた歴史の断片だ。真実か、それとも病の産物か。そんなことを問うことに、何の意味があるだろうか。
秋生は拳を握り、自分の指先を見つめた。そこには、まだ彼女の飛沫が乾いた後の微かな痕跡が残っているような気がした。
今、この瞬間も、どこかの電車で誰かが誰かと出会い、そして社会のルールに従ってその関係を「適切なもの」に修正しているのだろう。だが、僕は修正なんてしない。この指先に残る、不衛生で、混沌としていて、それでいて何よりも温かい「曖昧な関係」を、僕は死ぬまで守り抜く。
明日の朝、またあの車両に乗ろう。
彼女がどんな姿でいようと、それが認知症の霧の中の迷い言であろうと、僕の指先は彼女の唇を求める。その行為こそが、今のこの冷え切った日本という国に対する、僕のたった一つのささやかなテロリズムなのだ。
誰も知らない。この総武線の一角に、システムをすり抜ける聖域があることを。僕たちは、これからもその聖域で、問いも答えもない言葉を交わし続けるだろう。それが、何よりも人間らしい生き方だと信じているから。
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