暗闇の中で
秋生はその団体の会合から足が遠のいて久しいが、今でも時折、あの熱狂的な夜を夢に見る。
「マスクを外せ。肌と肌の温もりを、そして相手の匂いを取り戻せ!」
当時の僕たちにとって、その主張は唯一の希望だった。マスクという遮蔽物に阻まれ、言語以外のコミュニケーションが死滅した世界で、呼吸を解放することは、人間としての尊厳を取り戻すための聖戦のように思えたからだ。確かに、あの活動によって世論はわずかに傾き、国は5類への移行という舵を切った。僕も一時は、その先にある「以前のような街」を信じて、彼らの旗の下にいた。
だが、今となっては分かる。あれは、ただの「自己愛の暴走」だった。
秋生は窓辺で、かつての同志たちが掲げていたスローガンを思い返し、苦い笑いを漏らした。彼らは「匂いを感じたい」「女と喋りたい」という個人の渇望を、あたかも障害者全体の福祉であるかのようにすり替えていた。
「あれは悪人の団体だった」
秋生は冷たく言い放つ。彼らがマスク撤廃のために医療現場を混乱させ、疲弊しきった医療従事者に多大な負担を強いた事実は消えない。あの時、彼らは「マスクを外せば全てが解決する」と叫んだが、その先にあるはずの視覚障害者や、孤独の中にいる者たちへの具体的な支援は皆無だった。
実際、コロナ禍で視覚障害者がいかに歩み、いかに情報の断絶と戦っているか。彼らはその現場の苦悩には指一本触れず、ただ自分たちの「息苦しさ」を解消することだけに執着した。
「マスクを外せと叫ぶために、医療というインフラを破壊した。結果として、自分たちの権利を声高に主張した代償が、脆弱な人々へのサービス停止という形で跳ね返ってきた。これほど滑稽な失態はない」
秋生はスマートフォンの画面を見る。そこには、あの団体のリーダーが、今なおSNSで「自分たちの功績」を称え合う投稿が並んでいる。障害者のために戦ったふりをして、実際には自分たちの欲望を公共の利益と履き違えた彼らの姿は、今の合理的なシステムが抱える「無自覚な暴力」そのものだ。
「マスクを外した後の景色は、彼らが約束した楽園ではなかった」
秋生は窓の外に広がる、無機質な街並みを見つめた。マスクは外れた。だが、人々の心にはかつて以上の分厚い防壁が築かれた。他者の飛沫を恐れるあまり、以前よりも冷酷に、合理的に互いを排除する世界。彼らの活動は、社会に「正義」という名の亀裂を入れただけで、そこから流し込まれたのは、より深い相互不信という濁流だった。
「僕たちが入っていたのは、障害者のための団体じゃない。自分たちの小さな孤独を慰め合うための、巨大なエゴの集積所だったんだ」
秋生は、春香と歩いたあの頃の稲毛駅を思い出す。あそこには、論理も権利も主張もなかった。ただ、無駄で、汚れていて、けれど温かい空気だけがあった。今、そんなものはどこにもない。あるのは、正しさを競い合い、誰かを糾弾することで自らの存在を証明しようとする、あの悲しい団体が残した「分断の残骸」だけだ。
「過ちだったと認める勇気さえあれば、まだ救いはあったかもしれない。だが、彼らは今日も、自分たちが壊した世界の上で、自分たちの正義を語り続けている」
彼はスマートフォンを机に叩きつけるように置いた。エラーの音が響く。その音は、かつて僕たちが求めたはずの「匂いのする世界」とは、あまりにもかけ離れた、無機質な拒絶の調べだった。
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