わんこはあなたに恋をした
「何そのチラシ?」
 授業が始まるほんの数分前。ノートに挟んでいた皴のついたチラシを眺めていたら、隣の席の由香ちゃんが体を斜めに頬杖をついた姿勢で覗き込む。
「私の青春」
「アオハルかっ」
 楽しそうに笑う由香ちゃんに笑顔を見せて、昨日までの夢のような出来事を思い出す。

 高校に入学して一ヶ月。それなりに仲のいい友達ができ、クラスでの立ち位置が決まってきたころ。紫陽花は少しずつ蕾をつけ始め、雨の降る日を待つように毎日空を見上げていた。そんな紫陽花に倣うように、窓の外を眺めてばかりいた私の目にとまったのは、ギターらしきものを背負って、特別教室の並ぶ一階の窓から校舎内に忍び込む侵入者だった。壁に沿って小走りに移動する後ろ姿は、少し先の窓の前でキョロキョロと周囲を窺った後、徐に窓を開けて姿を消した。
「あ……」
 つい漏れた声に、そばにいた由香ちゃんが反応した。
「なに見てるの?」
 ドラマか映画みたいに校舎に忍び込む瞬間を目撃したから、驚いて人影が消えた窓を見続けていた。そのすぐ後には、その人物に興味が湧く。
「ねぇ、あそこの教室って、何か知ってる?」
 眺めていた二階の教室窓から、人影が消えた一階の窓辺りを指さして由香ちゃんに訊ねると、首を傾げた後、教室の前に固まっていた男子たちに声をかけてわざわざ訊いてくれた。
「あそこ。軽音部が使ってる教室じゃね。確か、ガラの悪い三年しかいなくて、たまり場になってるらしいから、誰も近づかないってよ」
「だってよ」
 男子が教えてくれた情報を聞いて、ガラの悪い上級生を想像してみた。凡庸なイメージしか持てない私には、ガラが悪いと言えば、制服を着崩して目つきが悪く、隠れて煙草を吸い、茶髪や金髪に染めた髪の毛に、タトゥーやピアス。目を合わせたら最期的な威圧感をイメージして身が竦んだ。なのに、どうしてか気になって仕方がない。
 もう一度窓から一階奥を覗いてみたけど、話声が聞こえてくることも、音楽が聴こえてくることも、そこから誰かが再び出てくることもない。窓なのだから、出入りする方が可笑しいのだけれど、また誰かが、なんてつい思ってしまう。男子が言うように軽音部なら、何かしら音楽が聴こえてきてもよさそうなものなのに、物音ひとつ聞こえてこない。
「窓、閉めちゃったのかな」
 そうしているうちに、本日最後となる授業開始のベルが鳴った。

「ねぇ、一夏|《いちか》。マックいかない?」
 由香ちゃんに誘われたけれど、用事があると断った。窓からの侵入者を目撃してから、授業の間中気になって仕方がなかったのだ。由香ちゃんにバイバイをしてから、授業道具を詰め込んだ重い鞄を持って階段を下りる。職員室があるのとは反対の方へ向かっていくと、備品室や多目的教室に来賓用の会議室。特別教室や、今は物置みたいになっている使われていない教室があり、そこを通り過ぎたそのずっとずっと奥の突き当りに、プレートに何も書かれていない教室があった。
「ここかな」
 さっきイメージしたガラの悪い上級生がむくむくと頭の中に浮かんできたけれど、それよりも興味の方が先に立ち、こそこそと近寄ると硬い弦の音が聴こえてきた。
 ギター?
 よくテレビで耳にする響くようなギターの音色じゃなくて、金属的で硬いシャカシャカという音が聴こえてきた。
 ドアにはガラス窓などついていなくて、もちろんほんのちょっとドアが開いているなんて都合のいいこともなく、中の様子はこれっぽっちも視界に入らない。さっき目撃した人がいるだろうという想像はできるけれど、どこからも覗くことかできない。
 どうしよう。気になるけど、ドアを開けたら気がつかれちゃうよね。けど、続くギターの音色や、忍び込んだ姿がどうしてか私の心を惹きつけて、ここで踵を返すなんてできなかった。
「ちょっとだけ……」
 恐怖よりも興味が勝り、教科書やノートが詰まった重たい鞄を床に置く。鞄が床とぶつかり、トンと少しだけ音が鳴っちゃった。けど、気にも留めず、ドアに指を引っ掛けてそっとスライドさせた。
 ほんの一、二センチ開けたと同時に、さっきまでのシャカシャカと鳴っていた音が止み、代わりに上履きが鳴らすキュッキュッという音を立てて、少し建付けが悪くなっているドアが軋む音と共に全開になった。
 まさか向こう側から開けられるとは思いも寄らず、突然のことに驚き固まると、目の前には眉間にしわを寄せた三年生男子が睨みつけるように私を見下ろしていた。

「のぞき見なんて、悪趣味だな」
 急にドアを開けられた時も心臓がドキマギして、つまらない好奇心に突き動かされるなんて一夏のバカバカなんて思ったけれど。見下ろされて、睨みつけられて、悪趣味だと言われている今は、それよりもずっと自分の行動を後悔し、ボコボコにされちゃうかもじゃんかぁ……、と血の気が引いていくのが解った。
 それでも恐々と、目の前の男子生徒を上目遣いで見上げてみた。百八十センチはあるだろうか。スラリと高い身長に、切れ長の瞳。ちょっといじっちゃって整っている眉と、くっきりとした喉仏。私とお揃いのように茶色がかった髪の毛は、地毛というよりは染めている傷み具合。少し節くれだった指はスラリと長くて、ギターを弾くには最適な気がする。ブレザーのジャケットは脱いでいて、白いシャツを肘の辺りまでまくり上げていて、露出している腕の筋がセクシーだった。
 恐怖心を抱きながらも、一瞬でそこまで観察しちゃう私って、少女漫画に毒されている。
「一年か?」
「はっ、はいっ」
 上ずりながらも返事をすると、先輩の手がスッと伸びてきて、ぎゅっと目を閉じた。
 殴られる!?
「これ、地毛? めっちゃサラサラで綺麗だな」
 髪の毛の間をすり抜けた先輩の指が、私の耳に一瞬触れた。さっきまで怖くて命がないくらいに思っていたはずなのに、先輩の一言と髪の毛をすり抜けた指に、春は過ぎたというのに桜の花びらがふわりと舞った気がした。
 閉じていた目をそっと開けて上目遣いに見ると、睨みつけられていると思っていた切れ長の瞳が目の前で穏やかに緩んでいた。
「入部希望?」
 ドアに寄りかかるように立つ先輩に訊ねられたことの意味が理解できず、きょとんとしてしまう。
「あ、いえ……その。窓からですね、入るところを……」
 つい正直に言うと、変な間が空いた。
「ん? 窓……。見てたのかよ」
 そう言うと、ヤベー、俺めっちゃカッコわりいとこ目撃されてる、と突然ケタケタ笑いだした。
 わ、笑った……。
 殴られると思ったから、まさか笑い出すとはと、私は益々身動きできずに立ち尽くす。
「今日は、授業さぼったからな」
 気さくに言いながら、先輩は教室の中へと戻っていく。立てかけていたギターの傍にある古い椅子に腰かけると無言でこっちを見た。
 帰れと言うわけでもなく、かと言って入れとも言われず。どうしたらいいのか解らない。
 すると、ギターを手にした先輩は、さっきまで聴こえていたシャカシャカという硬い弦の音を響かせ始めた。
「アンプに繋ぐと、さぼってたのバレるだろ?」
 先輩は言って、可笑しそうにクツクツと笑った。私もつられて笑ってしまった。
 ガラの悪い三年のたまり場になっていると聞いたけれど、先輩以外ここには誰もおらず。たまり場というよりは、隠れ家みたいだ。ここへ来る前に抱いていた最悪のイメージとはかけ離れた先輩の笑い方はとても人懐っこく、切れ長の瞳がここぞとばかりに細くなって、クシャリと崩した表情は私の心を釘付けにした。たまり場なんて、ガラが悪いなんて。人の噂ほどいい加減なものはない。
 急にドアを開けられた瞬間は、高校生活はい終了! と短い人生に終わりを見たけれど、今は少しもそんな風に思わないし。寧ろ、先輩ともっと話してみたい、そう感じていた。
「何の曲ですか」
 ドアの前に立ったまま、躊躇いがちに訊ねると手招きされた。促されるまま、床に置いた鞄を手にして一応ドアを閉める。パタパタと小走りに近寄ると、なぜかクスッと笑われた。
「今のは、オリジナル」
 近くの椅子を勧められて、鞄を抱えてちょこんと座るとまたクスリと笑う。何を笑われているのか解らないけど、イヤな感じの笑い方じゃないから笑みを返しておいた。
「楽しそうな曲ですね」
「いい曲だろ? って自分で言うなってか」
 照れくさそうにする先輩に、ブンブンと首を振った。だって、本当に素敵な曲だったから。
 いい曲だろ? ってことは、先輩が作ったっていうことだよね。すごいなぁ。自分には到底できないことに感心するし、興味も湧くし、尊敬もしてしまう。
 バンドや音楽なんて聴く専門で分らないことだらけの私は、先輩がギターを弾いている合間に沢山のことを質問した。先輩は穏やかな調子で、私の質問を嫌がることもなく聞き応えてくれる。ギターに繋ぐコードがシールドで、それをアンプに繋ぐと音が出て。ギターには、エレキギターにアコースティックギターもあって、指に持っていた小さなプラスティックのアクセサリーはピックと言って、これを使ってギターを弾くらしい。物珍しそうに先輩の指に摘ままれているピックを見ていたら、古くなったからやるよって、一つ貰っちゃたから嬉しくって大切に握りしめた。
 バンドを組んでいる先輩はギター兼コーラス担当で、昨日学校をさぼったのはスタジオ代を稼ぐためバイトをしていたかららしい。
 軽音部として教室をあてがわれてはいるものの、あまり大きな音で演奏すると先生たちから苦情が来るらしく。結局ここは、ただのミーティングルームのようになっているみたい。とは言え、ここにメンバーが集まることなどほぼないとか。
 帰り際、「明日もおいでよ」とあのクシャリとした笑顔で言われてしまえば、心臓はやっぱり春に逆戻りして、ふわふわ舞い降りる桜の花びらがまた見えた気がして夢心地になった。

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