わんこはあなたに恋をした
 翌日の放課後も、言われるままに軽音部に行った。と言うよりも、先輩に会いに行った。今日は、昨日と違う優しいギターの音色が聴こえてきた。アコースティックギターだ。
 控えめにドアをノックしてから、そっとスライドさせると、やっぱり昨日とは違うギターを抱えている先輩の姿が目に入った。今日も、他の人は誰もいない。二人だけの隠れ家だ。
 パタパタと中に入り、一曲弾き終わるのを昨日と同じ椅子に座って待っていた。閉まっている窓の向こうや廊下の先からは、時折生徒たちの声が聞こえてくる。目の前では先輩の奏でるギターの音色が心地よくて、私はうっとりと聴き惚れる。
 緩やかに曲を終えて締めくくると「名前。訊いてなかったよな」そう訊ねられた。
「いちか。須藤一夏|《すどういちか》。漢数字の一に夏で、一夏です」
「いい名前。俺は、よう。太陽の陽|《よう》て書くんだ。なんか、一夏とセットみたいな名前じゃね?」
 鼻歌交じりにそう言って口角を上げる先輩に、私は今日も心を持っていかれる。夏に太陽の眩しさ。セットって言われたことが、とても嬉しかった。
「ここには、先輩だけしか来ないんですか?」
「陽でいいよ」
 よ、呼び捨て!? 先輩と二人だけでもドキドキするというのに、会って二日目で呼び捨てなんてハードルが高い。
「よ、……よう……君……」
 昨日と同じように授業道具の詰まった鞄を、座る膝の上に置いていて、恥ずかしさと緊張でそれをぎゅっと抱きかかえ、精一杯頑張って先輩の名前を呼ぶとケタケタ笑われた。
「ごめん、ごめん。一夏があんまり可愛くてからかいたくなった。なんか、一夏って、ちっこくて、人懐っこくて、犬っころみたいだよな。こっちに向かってくるときも、ちっこい犬っころが近づいてくるみたいに走ってくるし。椅子に座る時は、遊んでほしそうな顔して坐るよな。一夏はさ、昔家で買ってた薄茶色の雑種に似てるんだよ。いっつも尻尾振って俺の後ろくっついてくんの。遊んで欲しくてまとわりついてきて、すげー可愛かったなぁ」
 先輩はその犬を思い出すように、ニコニコと笑みを浮かべている。クスッと笑った理由は、私の動きがその飼っていたわんこちゃんに似ていたからだったんだ。嬉しいような、複雑な気持ちに笑みがこぼれた。
「犬の名前は、何ですか?」
「名前? 太郎」
「た、たろう……。オスじゃないですか。しかも、太郎って」
 あまりに可笑しくて吹き出してしまった。
 けど、犬でも太郎でもいいんだ。私は陽先輩のペットでもいいから、そばにいたいのです。
「おいで、俺のわんこちゃん」
 先輩が手招きする。ドキドキしながら傍に行くと、「ギター、弾いたことある?」そう言って手取り足取り教えてくれた。
「下の細い弦から一弦、二弦、三弦……。六弦まであるのがギター。四本のは、ベースね。この握る部分がネックで、棒状の細いところがフレット。何か押さえてみる?」
 言われるままギターを抱えると、陽先輩が急に笑いだした。
 今度は、何?
 私が何するたびに笑う先輩にドキドキしながら、それでもきっと感じの悪いことなんか言わないってわかってた。だから、私は先輩の言葉に少しの期待を持っちゃうんだ。
「一夏より、ギターの方が大きいんじゃね? わんこちゃんは、ちっちゃくて撫でまわしたくなるな」
 大きなギターを抱える姿が可愛いなって笑いながら、先輩は私の髪の毛に手を置きクシャリとする。
 その手が嬉しくて、触れてくれる先輩の手にドキドキして。目の前から私のことを見ながら笑みを零す先輩に、心臓が破裂しそうなくらい大きな音を繰り返していた。
「ほんと、サラサラ」
 羨ましい、と言いながらカラーで傷んだ自分の髪の毛に触れている。
 そこへ突然勢いよくドアが開いた。
「陽っ! ん!? なんだ、その子」
 突然入ってきた、先輩と同じように制服を着崩した男子生徒は、声をかけながら傍でギターを抱える私に注目する。
「女連れ込んでんなよ、このイケメンがっ」
 ニヤニヤしながら言って入ってくると、私たちの目の前に立つ。
「こいつ、一夏。俺のお気に入りのわんこちゃん。可愛いだろ?」
「わんこ?」
 なに言ってんだ、とばかりにその男子生徒は笑う。
 入ってきた友達らしき人と笑いあいながら、先輩はギターを抱える私ごと自分の方へ引き寄せた。それは、抱き寄せるというよりもペットを愛でるような引き寄せ方だったのだけれど、それでも私は嬉しくて、嬉しくて、顔が熱くて想いは急加速していた。
 先輩の香り、先輩の体温、耳元で聞こえる声。
 ずっとこうしていて欲しいと恍惚となりそうになりながらも、興味を抱いたような顔で立ち尽くす彼に名乗った。
「一年の須藤一夏です」
 わしゃわしゃとペットを撫でまわすような陽先輩の手の中で、初めてやって来た軽音部のメンバーらしき人に挨拶をした。
「どもども。俺、佐藤哲也。かったい名前だけど、めっちゃ緩いんでよろしくぅ」
 握手を求めるように右手をさし出してきたから、私も手を出そうとしたら先輩に止められた。
「おさわり禁止~。一夏は俺のだから」
「ケーチ」
 唇を尖らせた佐藤先輩は、自分で言うように緩い雰囲気を最大限に醸し出しながら唇を尖らせている。
 私は、「俺のだから」そう言ってくれた先輩にやっぱりドキドキしてしまって体が熱くなった。
 そんな陽先輩の態度に半ば呆れたような佐藤先輩は、気分を変えるように鼻歌を歌いながら、奥にあるコードがたくさんかたまっている場所にしゃがみ込む。
「シールド一本、接触悪くってよ。持ってくぞ。つか、絡み過ぎだろ、こんにゃろ」
 ぐちゃぐちゃに置かれているシールドが絡まっているようで、そこから一本を取り出すのに手間取っている。
「今日もスタジオ、来るだろ?」
 漸く一本のシールドを解きほぐし手に入れた佐藤先輩は、椅子に座っている陽先輩に話しかける。
「一夏と遊んだらいくよ」
「マジで気に入ってんじゃん」
「わんこみたいで可愛いだろ?」
 そう言うと、今度は私の髪の毛にサラリと触れる。
「この髪の毛も、好きなんだよなぁ」
 髪の毛を擦り抜ける先輩の指。自分の髪の毛一本一本に神経でもあるみたいに、全身で先輩を感じていた。好きって言葉が、まるで自分自身に言われたような気になって夢心地になる。
「わんこって。陽は、ネコ派じゃん」
 佐藤先輩は、さっきよりも更に呆れたように言ったあと笑い飛ばした。
「うっせぇ」
 じゃれあう二人の姿に笑みを漏らしながら、ネコ派だと言われた先輩から目が離せなくなった。
 先輩、ホントはネコ派なんだ……。
 わんこみたいな私をどう思っているのかな。私がネコみたいに気ままで、自由で、優雅な雰囲気を持っていたら、先輩は私を――――。
 そこまで考えて、先走る思考に羞恥心が湧き上がる。好きって言ったのは、髪の毛のこと。お姉ちゃんにも言われた、私にある唯一の長所。先輩は、サラサラで少しだけ色素の薄い髪の毛を好きなだけ。私を好きだなんて、一言だって言っていない。大それた思い込みを振り切るように、大きなギターをぎゅっと抱えた。

 それからも、私は毎日軽音部に通ってた。ドアをノックして「一夏。おいで」って先輩に言われて、近くの椅子に腰かける。ルーティーンのように繰り返す陽先輩との日常は、私の宝物になっていた。
「先輩は、ギターだけで歌わないんですか?」
「コーラスは、するけどな」
 先輩の声、綺麗なのに。聴き心地のいい声は、ゆったりと海に漂うみたいに身を任せられるような、抱きかかえてくれるような広く大きな心のある声。先輩が口ずさみながらギターを弾いてくれると、私はいつもうっとりしてしまう。
「俺よりずっとうまい奴がボーカルやってるから」
 先輩よりうまいってなんだろう。音程? リズム感? 私はならそれよりもずっと、先輩の声に漂いたいって思う。
 逢ったことも聴いたこともない本当のボーカルに敵対心を抱くように、私は先輩の方がずっとずっと優れているって思わずにいられなかった。
 不満を抱いたような顔をしていただろうか。先輩が私の頭に手を置いてクシャっとする。それから、スルスルッと髪の毛を梳くように、先輩の指が私の心をくすぐるように通り過ぎていく。ここへ来るようになってから、いつもしてくれるこの仕草が好き。先輩の指が私の髪の毛を梳くのが、私の頭に触れてくれるのが好き。先輩が、好き。
 もっと触れて欲しい。頭や髪の毛だけじゃなくて、もっと私の全部に……。
 先輩を見つめていたら、視線が合って。私の心臓は先輩と心を通わせようと高鳴りだして、止められない感情に髪の毛を通り過ぎていく先輩の指先を捕まえようと手が伸びた。
「……いちか」
 私の名前を呼ぶ先輩の声。大好きで愛しい陽先輩の声。
「陽せんぱ――――」
「ようっ! 居るかー」
 大きな声とドアを勢いよく開ける音と共に、佐藤先輩がズカズカと入ってきた。
 先輩の指先を追っていた私の手は驚きに引っ込んで、私の髪に触れていた先輩の手も、スッと離れていった。
「おっと。わんこちゃん、今日も来てたんだ」
 佐藤先輩は、一夏と呼ぶよりもわんこという方が慣れてしまったのか、ニコニコとしながら陽先輩に近づいていく。
「あれ。哲、今日バイトは?」
「それが先週のテストで赤点とっちって。数学の小田島に今まで説教食らってた。やる気あんのかーーーって」
 佐藤先輩がやる小田島先生の物真似は結構似ていて、私も先輩もクスクスと笑ってしまった。
「さっきやっと解放されたから、これからバイト。で、これ預かってたから。新曲の歌詞変更だってよ」
 薄っすらピンク色をしたルーズリーフが一枚、先輩へと差し出される。書かれている文字は、意志の強そうなしっかりとした文字だった。
「んじゃあ、あとでスタジオな。あ、わんこちゃん。陽に食われんなよ。またね」
「余計なことを。いいから、さっさと行けよ」
 手を振る佐藤先輩の言葉に顔を熱くしている傍で、二人はじゃれた言い合いに声を上げて笑っている。
「食うわけないんじゃんなぁ、こんなに可愛いわんこ」
 そう言って先輩は、私の頭をまたくしゃくしゃと撫でまわす。それからやっぱり、スルスルッと長い指が髪の毛を梳くように通り過ぎて行った。

 五月も半ばを過ぎたころ、いつものように軽音部に顔を出したのだけれど、先輩の姿はなかった。一時間ほど待っても誰も現れず、夕日が窓を照らし出したころ、諦めて校舎を出た。
 その次の日も、次の日も先輩は現れなくて。毎日ギターを聴いて、先輩と話をしていたのに、連絡先の一つも知らなかったことに愕然とした。宝物だと思っていた毎日は、何事もなかったようにひっそりと私の前から姿を消した。
 連絡先くらい、訊いておけばよかった。ここに来れば毎日会えるから、必要ないって思ってた。考えてみたら、先輩も私の連絡先、訊いてこなかったな……。
 近いと思っていた陽先輩との距離は、本当はずっと遠かったのかもしれない。勝手に近づいた気になって、勝手に一人でいい気になっていただけなのかもしれない……。
 先輩がいるだろう三年生の教室を訊ねる勇気もなくて、私はただひっそりと静まり返っている軽音部の教室で、ひたすら先輩が現れるのを待っていた。
 いつも歌っていた先輩の鼻歌を覚えてしまった私は、誰もいない軽音部の静かな教室で口ずさむ。先輩の声を思い出しながら口ずさんで泣きそうになる。
「どうして来ないんだろう……。陽……先輩」
 溜息と共に漏らしたところへ、軋む音を立ててドアがスライドした。その音に耳ざとく反応し、座っていた椅子から立ち上がった。
「先輩っ」
「……えっとぉ。ごめん、わんこちゃん。陽じゃないんだ」
 申し訳なさげに入ってきたのは、佐藤先輩だった。背中にベースを背負って、以前もあさっていた、シールドのある場所にしゃがみ込む。
「前に持っていったのも、あんまり接触がよくなくってね」
 特に何か訊ねたわけでもなかったのだけれど、間を持たせるみたいに佐藤先輩がそう言いながら、絡まっているシールドを解いている。
「あの……」
「陽なら、来ないよ。俺たち、週末にライブやるんだよ。それで追い込みかかってて、スタジオに通い詰めててさ」
 そうなんだ……。知らなかった。ライブのことも、スタジオ練習のことも。ペットの私には、話す必要もないってことかな……。
 自虐的な思考に陥ると、佐藤先輩がスッと立ち上がった。
「やっと解けた」
 シールドを手にして、クルクルとまとめている。
「あのさ……、わんこちゃん。ライブ、観にくる……?」
 僅かに躊躇いを見せるようにして誘う顔に、はっきりとしない不安に苦しくなり、胸の当りがモヤモヤとしだす。
「行ってもいいと……思いますか?」
 躊躇いながら訊ねると、佐藤先輩が眉根を下げた。
「難しい質問だね……。わんこちゃんはきっと賢い子だから、気がついているんじゃない?」
 佐藤先輩に言われて、心臓がぎゅっと苦しくなる。頭の中を過ったのは、薄いピンクのルーズリーフと、ネコ派の言葉。
 目を瞑ろうとしていたものが顔を出しそうになって、見ないように目を逸らす。
「私……、賢くなんて、ないです……」
「うん……。俺は何とも言えないけどね。でも、これ……一応渡しておく。俺からの招待ってことで」
 佐藤先輩は、細長いチケットを私に差し出す。そのチケットをじっと見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。
「観に……行きます」
「そう。……強いね、わんこちゃん」
 佐藤先輩の言葉にフルフルと首を振った。
 強くなんかない。少しも強くなんかない。私はただ、先輩に逢いたいだけ。

 週末にやって来た小さな町は、私なんかが場違いみたいで、古着やシルバーを身につけた人たちや、個性的なヘアスタイルや服装の人であふれていた。
 ライブなんて行ったことないからどんな格好をすればいいのか解らなくって、春にパパが買ってくれた、とっておきのワンピースを着てきた。大好きなスカイブルーのワンピースは、緩く吹く湿気を含んだ風に裾を揺らす。
 チケットの裏に描かれたライブハウスの入り口は、まるで深い洞窟の穴みたいに地下への階段があって、大人ぶって履いてきたサンダルのヒールがおぼつかない足取りにさせた。ぎこちなく階段を一段一段確かめるようにして下りていくと、真っ赤な髪の男の人と真っ青な髪の女の人が受付にいて、ビクビクしながらチケットを渡したら、チラシの塊と千切ったチケットの半券をくれた。
 それを手にしてステージに入る重いドアを開けると、一気に音が飛び込んできた。音に驚いてその場で思わず肩を竦めて立っていると、早く入って、とそばに立っていた人に促されて、半ば強引に中へと押し込まれドアを閉められた。
 一つ目のバンドが始まっていて、とっても騒がしくというか元気に音楽を奏でていた。それは、どこかで聴いたことのある曲で、ああコピーバンドなんだなってすぐに解った。
 壁にある、今日の出演バンドが書かれたボードを見ると、全て高校生バンドらしく。殆どが誰かの曲をコピーしているものを披露するみたいだった。
「先輩たちのバンドはオリジナル曲って言ってたから、すごいってことだよね」
 単純過ぎるかもしれないけれど、そんな風に考えて興奮した。受付で返されたチケットの半券を眺めると、ドリンクと引き換えることができると書かれていた。クルリと背後を振り向くと、ドリンクカウンターがあった。ここへ来るまで初めてのことだらけで緊張していて、とても喉が渇いていた。半券をオレンジジュースと交換してもらう。真ん中辺りに背の高い小さなテーブルが一つ空いていたので、そこにチラシを置いてオレンジジュースをゴクゴクと飲んだ。半分ほどまで飲んでから、記念のチケットが手元に残らないことに気がついて、後ろにあるドリンクカウンターを焦ったように振り返ったけれど、飲んでいたオレンジジュースのカップを握りしめて溜息を洩らした。
 目の前で奏でられている知らないバンドのよく知る音楽を聴きながら、渡されたチラシを眺めた。中から先輩たちの物を探し出す。
 数枚目で、すぐに先輩の姿が目に留まった。右の位置に鋭い瞳でギターを抱え、対象の位置には佐藤先輩がベースを抱えて得意気な顔をしていた。
 真ん中の後ろにはスティックを持った知らない男性がいて、きっとドラマーなんだろうってわかった。
 そうして、その三人の真ん中にいる人に、私の目は釘付けになる。穴が開くほどそのチラシを眺め曲のタイトルを何度も目で追い、そして写真も何度も見た。写真に写る先輩はかっこよくて、普段よりもずっと大人に見えて、みんなで映っているその写真を見ながらじんわりと涙が浮かぶ。
「痛い……」
 心臓がズキズキする。
 その理由を考えないように顔を上げ、左手で心臓の当りを押さえ、スカイブルーのワンピースに皴を作る。
 演奏していたバンドの騒がしい音楽が二十分ほどで終わった。舞台からバンドがはけて、少しの間待を持たせるように音楽が流れてきた。照明も明るくなって、力なく持っていたチラシをテーブルに置いた。そこに舞台セッティングをしに先輩たちが現れた。真ん中辺りに立つ私に気づくこともなく、陽先輩も佐藤先輩もドラムの人も黙々と楽器の準備をしている。ボーカルらしき人の姿は、まだない。
「陽……先輩」
 自分でも気づかずもれた声は、音楽に紛れて消える。
 時間になり一度照明が落ちると流れていた音楽がスッと止み、ステージにパッと明かりが灯った。それと同時に現れたメンバーに息を飲んた。拍手が湧きおこる。スタンドマイクを握る細くしなやかな手。綺麗に塗られた少し派手なマニキュア。スリットの入ったタイトなスカートから伸びる白い足にはヒールの高いサンダル。マニキュアとお揃いのペディキュア。MCを始める柔らかな話声。緩くウエーブのかかった長い髪の毛を、頭の上でキュッと縛り上げているのは大人っぽくてかっこよくて、ネコみたいな大きな瞳は魅入られるほどに観客を惹きつけた。真っ白なリネンのシャツの襟元から覗く、なまめかしい鎖骨。曲名を言い、スタンドマイクを握る彼女と目配せする陽先輩。
 何度もそうして見つめ合い、合図を送りあってきたのがよく解る二人の仕種に、スカイブルーの皴は深くなる。
 聴いたことのある旋律。通い詰めた軽音部で何度も聴いた曲。先輩がギターで奏でてくれた曲。ボーカルの彼女を見つめながら、先輩がにこやかな表情でギターを弾く。
 楽しそうに、愛しそうに、彼女を見つめる先輩。
 ああ、彼女のためだったんだ。
 ずっと練習していたあの曲も、新しく考えていたこの曲も。
 全部、全部。彼女のために考え、頭を悩ませていたんだ。
 わんこちゃんなんて言われて、気持ちよくなって。髪の毛に触れられてドキドキしちゃって。頭の上に置かれた先輩の大きな手を愛しく感じていた。
 ベースの人が言ってたよね。わんこじゃなくって、ネコ派だろって。薄いピンクのルーズリーフは、彼女からだったんだね。意志の強そうな文字は、先輩の心を掴んでいたんだね。
 何となく気づいていた。だけど、目の前で見て、やっと頭も心も理解した気がする。
 そっか……こういうことだったんだ。そっか……。
 しなやかな動きで、のびやかに響く声。
 先輩とハモる声は心地よくて、俺よりうまいって言ってた意味も分かった。ここは、陽先輩とボーカルの彼女の舞台みたい。彼と彼女の舞台みたい。
 できあがっている二人の空間。想いが行き交っていて、愛があって、互いを尊重していて。
 敵わない。
 叶わない……。
 ほんのちょっとの隙間に入り込んじゃったペットのわんこは、隅の方で尻尾を丸めるしかない。何人もいるお客の真ん中でどんなに彼を見つめても、わんこの私はまぎれてしまって見えもしない。

 ステージの幕が下りても動き出せなくてぼんやりと突っ立っていたら、楽器を片付けていた佐藤先輩が、立ち尽くす私に気がついた。
「あっ、わんこちゃん。来てくれてたんだ」
 佐藤先輩の声に陽先輩も気がついた。ボーカルの彼女も気がついた。彼女にニコリと微笑まれたけれど、顔が歪んじゃってうまく笑みを返せない。陽先輩の顔は、少しだけ複雑に歪んでいて。私をライブに誘わなかったのも、ライブがあること自体を知らせなかったのも、私がここへ来ることを望んでいなかったからなんだってわかった。
 私がいていいのは、あの誰も来ない軽音部の教室だけ。先輩が一夏って呼んでもボーカルの彼女には聞かれない、あの校舎のずっと端にある静かな隠れ家みたいな軽音部の教室だけ。
「彼女がわんこちゃん? 可愛い子」
 ほんの少しの嫌味もなくて。寧ろ素敵な笑顔で、素敵な声でボーカルの彼女が私に笑いかける。素敵すぎるそのネコのようなしなやかさで、来てくれてありがとうって笑顔をくれる。
 雑種で太郎の私は、血統書付きのネコみたいな彼女の前にいることが居たたまれなくて、クルリと背を向けた。それでもテーブルに置いていたチラシを手にしたのは未練? 情けない。
 洞窟のような階段を駆け上がる。お気に入りのスカイブルーは、夜の色に染まるように少しだけ濃い青に染まる。彼女が履いていたサンダルよりもずっと低いヒールが足に痛みをくれる。
 痛い、痛い……、すごく痛い。
 足が痛いのか、心が痛いのか。
 息を切らせて夜空を見上げていたら「いちかっ」て呼ばれて振り向いちゃった。
 最初で最後になるかもしれない先輩からの呼び声。一夏。そう呼ばれる毎日が嬉しかった。わんこちゃんって呼ばれて、髪の毛をクシャってされるのも大好きだった。ギター教えてくれる先輩の手が私の手に重なる瞬間に胸を熱くしていた。この手で抱き締めて欲しいって、夢を見ていた。
「素敵なボーカルさんですね」
 息を切らせて来てくれた先輩に、精一杯の強がり。
「佐藤先輩が言ってた意味が……解っちゃいました」
 わんこは、雑種で家族みたいなもので。でも、ネコの彼女は、とても大事にしたい愛しい人。
「ごめんな……。俺、一夏のことホント可愛くて。一夏の気持ちに気づいても、離れらんなくて……」
「いいんです。解ってます。先輩との時間、楽しかったです。わんこの私はとっても楽しかったんです。いっぱい尻尾振っちゃって、嬉しかったんです」
 涙が滲む。先輩の顔が少しずつ歪む。
 お願い、しっかり見せて。涙なんて、要らない。
「……一夏」
「バイバイ……。陽先輩」
 雑種の太郎に負けないくらい、先輩に尻尾を振って、大きく手を振って、私は潔く背を向けた。
 踵を返した瞬間に涙が零れて、スカイブルーには濃い水玉ができる。恋を知った私は、苦しく鳴る胸を抱えて、先輩の写るチラシを握りしめて、優しいギターの音色を思い出す。大好きだった二人の時間を思い出す。
 幸せだった、宝物の時間。

< 3 / 4 >

この作品をシェア

pagetop