マツモト先生のこと―離島で先生になりました―

あたし

 金曜日、朝イチで、教務主任の先生に通知表を提出した。なんとか間に合った!

 でも、ちょい無理したかな。朝起きたときから、なんか調子悪い。熱があるかも。おなかの中身がぐるぐるする。

 三校時が空き時間だったから、あたしは保健室に行った。サリナちゃんママの保健の先生から、顔色悪いって言われた。熱を計ったら、三七度六分。微熱だよね。たいしたことない。

「タカハシ先生、ちょっと横になったら?」

 保健の先生に訊かれて、どうしようかなと思ったけど。

 あ、なんか、おなかが変。

 あたしは背中を丸めた。じわじわと、おなかが冷えていく。冷えながら、だんだん痛くなっていく。

 何これ?

 スーッと、ヤバい場所に向かって落ちてく感じ。背筋に悪寒が走る。体が震える。スーッと冷たくなって落ちてく。そして止まった。

 下腹に、猛烈な痛み。

「痛っ……!」

 思わず、うずくまる。保健の先生が慌ててあたしの肩を抱く。あったかい手。あたし、ぶるぶる震えてる。

「どうしたの、タカハシ先生!?」
「お、おなか痛い……っ」
「どのあたりが痛むの?」
「…………」

 言えない。こんな症状、初めて。でも、ぼんやりした知識があったから、わかる。

 膀胱炎《ぼうこうえん》だ。脚の付け根にすごく近い場所が、ゴリゴリしてズキズキする。そいつが冷たく膨れ上がって痛むせいで、腸も胃も、腐ってるんじゃないかってくらい気持ち悪い。

 職員トイレに連れてってもらって、個室の中で激痛にうめいた。血の色をした水が出た。涙が出るほど痛かった。

 吐いて、おなかを下して、体に力が入らなくなった、ずくんずくん、と、下腹が痛い。

 保健室に戻ったら、誰もいなかった。あたしは、へたり込んで、そのまま膝を抱えた。体を丸めてれば、痛みがちょっとマシになる。

 すぅっと、意識が遠のいた。

「タカハシ先生」

 肩を揺さぶられて、ハッと目を覚ました。腕時計を見れば、四校時が始まったところだ。ヤバい。あたしは顔を上げた。マツモト先生がそこにいた。

「立てますか?」

 動きたくない。でも、四校時、行かなきゃいけない。何か答えたい。唇がわなわなして、何も言えない。

 マツモト先生は、真剣な顔をしていた。

「車、出しますけん、病院に行きましょう。おれ、次は空きです。連れて行きます」

 保健の先生が、あたしの背中をさすってくれた。

「授業は大丈夫よ。四校時の算数のテストは、校長先生が見ていてくださるから。五校時は、マツモト先生が五・六年生と一緒に体育をしてくださるって」

 ホッとした。力が抜けた。ズキン、と下腹が痛んだ。顔をしかめた拍子に、涙が出た。

 マツモト先生が出してくれた車は、軽トラだった。自宅までひとっ走りして、取ってきてくれたらしい。軽トラの助手席で、島で唯一の病院に行った。白衣の看護師姿のメーちゃんが、びっくりした顔をした。

「どげんしたと? 顔、真っ青たい」
「……たぶん、膀胱炎……」
「じゃあ、痛かろ?」
「痛い……恥ずかしい……」
「女性は、膀胱炎になりやすかけんね。体の構造のせいやけん、仕方なかよ。風邪みたいなもん」

 マツモト先生は、放課後に誰かが迎えに来るから、と言って、すぐに学校に戻っていった。

 診察の待ち時間、あたしはうつらうつらしていた。熱が上がってきてる感じがした。吐いた後、水も何も飲んでないから、喉が渇いてひりひりする。でも、自販機で飲み物を買ってくる気力も起きない。

「タカハシ先生、順番、来たばい」

 メーちゃんに起こされたとき、待合室は、ガランとしていた。さっきまで、お年寄りがたくさんいたのに。

 診察室に入った。おじいちゃん先生に症状を話した。ベッドで仰向けになって、下腹の触診。仰向けで脚を伸ばすのは痛すぎたから、膝を曲げてた。下腹を押された瞬間、激痛。

「膀胱炎で間違いなかでしょう」

 尿検査もした。ひたすら痛かった。紙コップの中身は真っ赤だった。

 熱も高くなってたし、脱水症状が怖いから、しばらく横になって点滴を受けることになった。幅が狭くてマットの硬いキャスター付きのベッドの上で、横になる。

 メーちゃんが担当してくれた。あたしの左肘の内側に、さっと消毒液を塗る。ゴムのチューブで二の腕を縛って、血管を浮き出させる。

「ちょっとチクッとするばい」

 点滴のぶっとい針が刺さった。一瞬だけ、ズキンと痛みが腕に響いた。でも、こんなの、痛いうちに入らないね。下腹の痛みに比べたら。

 膀胱に巣くってる細菌を殺すために、さっき抗生物質を飲んだ。早く膀胱炎を治すには、水分を取って細菌を押し流さなきゃいけない。それをするためには、ものすごく痛むんだけど。

 でも、体は、そうやったら治ることを知ってるのかもしれない。ほんのちょっと水分補給するだけで、すぐにトイレに行きたくなる。

 横になってたら、眠気が襲ってきた。体を丸めてなきゃ耐えられない下腹の痛みよりも、熱のせいで頭がズキズキするのよりも、眠気が圧倒的に強い。

 メーちゃんが毛布を掛けてくれて、氷枕を当ててくれた。白いカーテンを閉めながら、おやすみって手を振った。

 目覚めは最悪だった。全身、かゆい。皮膚だけじゃない。口の中の喉の奥まで、ものすごく、かゆい。

 点滴の様子を見に来たメーちゃんに、真っ赤に腫れ上がった肌を見せた。

「じんましんが出とる。抗生物質が強すぎたとやね」

 メーちゃんは走っていって、皮膚科の先生を連れてきた。点滴しながら、その場で診察してもらった。

 メーちゃんの見立てどおり、膀胱炎の抗生物質が原因だった。もともと、細菌を殺すための強い薬だ。あたしの弱った胃腸は、その強い抗生物質を受け入れきれなかった。そのせいで、じんましんが出た。

 メーちゃんは、あたしの体のあちこちにじんましんの薬を塗ってくれた。氷で冷やしてくれた。口の中のじんましんも、シロップみたいな塗り薬で、だんだん引いていった。

 あたしは、情けなくて痛くてかゆくて、メーちゃんの優しさが嬉しくて、マツモト先生たちに迷惑かけてることが申し訳なくて、泣けて泣けて、しょうがなかった。

「タカハシ先生、泣かんとよ」

 そう言いながら、メーちゃんだって、もらい泣きで泣いてた。

「メーちゃん、あたし悔しい。なんでこうなっちゃったんだろう? 頑張るってほど頑張れてないよ。子どもたちにも先生方にも甘えてばっかで、マツモト先生にも、メーちゃんちのおかあさんにも。なのにさ、またこうやって病院に担ぎ込まれてさ。膀胱炎なんて、恥ずかしくて誰にも言えない病気だし。じんましんまで出るし」

「よか、よか。甘えてよか。みんな、タカハシ先生のこと、ちゃんと助けるけん」
「メーちゃん……」
「ねえ、元気になったら、テニスしよう。学生時代、テニス部やったとやろ? うちもテニス部やったし」
「この島、テニスコートあるの?」
「あるよ。昔の中学校のテニスコート。兄貴も誘って、三人で遊ぼ」

 遊ぶっていっても、カラオケも映画もなくて、テニスコートしかなくて、しかも廃部になっちゃった中学校のテニスコート。

 だけど、子どもたちとの外遊びじゃない“遊び”、息抜きとしての社会人向けレクリエーションって、なんて贅沢な響きだろう?

 あたしは、泣き笑いの顔をした。

「テニスやりたい」
「じゃあ、元気にならんば」
「うん」



 帰りも、マツモト先生が軽トラで迎えに来た。あたしは助手席で、メーちゃんは荷台に乗った。そのままマツモト家で夕食をいただいた。おかゆと、魚のだしが効いたお味噌汁。

 夕食の後、マツモト先生があたしの教員住宅まで送ってくれた。軽トラで。

「車の揺れて、ごめん」

 なんか、謝られた。県道のアスファルトがボコボコなんだから、軽トラが揺れるのは仕方ないのに。

「お世話になりました」

 あたしは、たぶん、今まででいちばん心から、マツモト先生に頭を下げた。
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