〜鎌倉あやかし奇譚〜 龍神様の許嫁にされてしまいました
「なんで……、誰も気付いてないの?」

島のはずれに差し掛かっても、それなりに観光客はいる。
しかし、すぐそばのカップルも。食べ歩きをしている親子連れも、
こんなの血だまりがあちこちにあるのに誰一人として叫び声もあげやしない。

まるでそこに存在しないものとしてそれぞれ観光を楽しんでいる。
そこから連想させられる事実は一つ。

「まさかこれ、あやかしの血……なのかな?」

そう考えればしっくりきた。
私にとってはあやかしは見えるが、ほかの人でその存在を感じられる人間にあったことはない。
それは観光に来た客も同様だった。

そこで私は、はたと立ち止まった。
祖母との約束を、今まで私は一度も破ったことはない。

(でも……このままじゃ……)

立ち止まって血の跡を見つめる。
だんだんと雫が大きくなっているような気がする。

ひょっとしたらもう死んでしまっているかもしれない。
しかし、もし間に合うのであれば一刻も早く急がなければならないのは明白だった。

どうしてこんな往来で傷つくような事態になっているのだろう。
その理由は分からない。
でも、このまま見捨てるわけにもいかない。


あやかしと関わってはいけないよ。


(うん、分かってるよおばあちゃん)
 祖母は私の身を案じていた。『あんなこと』があったのだ。無理もなかった。

でも私にとってはあやかしは心の中ではずっとずっと友達だった。
見捨てることができないのだ。

顔を上げると走り出す。
道の真ん中に続く血のあとはどうやら奥津宮(おくつみや)へと続いているようだった。
八方睨みの亀の前を通り過ぎ、境内へと入る。

ここは海を守る神様と言われている多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)を祀っているが、社殿は割とこじんまりとしている。
島の端の方に位置しているからか、夕方ともなればここまでくる観光客の数はぐっと減るため、どうやら自分だけしかいないようだ。


「あれ……?」

 確かに血の跡はここまでつながっているように見えた。
 しかし、社殿の目の前で少し血だまりあるだけで、そこから血の跡が途絶えているのだ。

「どうしてだろう?」

 きょろきょろと辺りを見回すも、それらしい影は見えない。

「見失ったのかな?」

 引き返した方がいいかと思ったが、心がざわざわと落ち着かない。
 とはいえ手がかりがないのであれば、暗くなってくるし帰ったほうがいいかもしれない。
 それになんとなく、近くにいるような気がする。理由はないのだけれど。

「あ……、ひょっとして!」

龍宮(わだつのみや)かもしれない。

ふとそう思い立ったのは心のどこかで祖母の言っていたあやかしと龍神様のつながりを意識していたからだろう。

奥津宮のすぐ隣に龍宮はある。
龍の住処と言われていた岩屋洞窟の真上に位置し、
外観もどこか岩屋を連想させるような石造りの宮の上に龍神様の像が鎮座している。

走って来たが、予想に反してここにもあやかしの姿はない。

「完全に見失っちゃったのかもしれない……」

正直手詰まりだった。
誰か他に見える人がいればいいのだが、手がかりがないのであればどうすることもできない。
そう思い立って立ち去ろうとした時だった。

「え……?」

誰かに呼ばれたような気がした。
耳をそっとすましてみる。
しかし、聞こえるのは風と遠い潮騒の音だ。

「また勘違いかな?」

首をかしげると、踵を返す。
また私の耳に何か音が響く。


しゃらん。


その音を確かに私は知っている。
あの日、その音を確かに聞いた。懐かしい気持ちが蘇える。
龍宮を背にした私に、そっと温かい空気と懐かしい香りが漂ってくる。

「あ……」

私は覚えている。
私が泣きじゃくった日。
祖母の部屋で嗅いだ香りと同じだ。

(おばあちゃん……?)

慌てて振り向いた時だった。

「へっ!」

鈍い声をあげて、私はその場にうずくまる。
顔面ノーガードで何かがぶつかってきてしまったようだ。

「痛っ……。い……いきなりなんなの?」

目と鼻が痛くて、とりあえず顔で受け止めたらしい「何か」の感触を手で確かめる。

もふもふとした肌触りのいい毛。
しかし、手についたべっとりとした感触に思わず身震いする。
そして急に香る鉄の匂いに背中に冷たいものが走った。
慌てて見てみると、仲見世通りで見かけた子供のあやかしだった。

「だ……、大丈夫?」

はっとして抱え上げると、唇からはあはあと荒い息を吐いている。
傷は深く、次々と血が吹き出てくる。この子に残された時間はあと僅かしかない。
医療に詳しくない私でも直感でそう感じた。

「いけない……、早く手当しないと!」

 慌てて立ち上がる私の目の前を黒い影が遮る。
 少し生臭くて温かい吐息が一瞬よぎったかと思うと、急な旋風が視界を奪う。

「……なっ!」

 腕で目の前を遮りつつ見上げてみると、そこには大きな狼のようなあやかしが毛を逆立ててながら、低いうなり声をあげていた。

その燃えるように赤い瞳が私を射抜く。
背筋がゾワっとして、思わず胸元のあやかしをぎゅっと掻き抱いた。

「ひぃ……っ」


逃げなければ。


直感がそう私に囁く。
私は分かっている。このままでは確実に死ぬ。
しかし、まるで枷がついたように私の両足はちっとも動かない。
その間も、私を伺うかのようにじりりとあやかしは距離を詰めて来る。

「く……っ!」

動いて! 動いてよ! 

そう叫びたいのに、思ったような声が出せない。
この時に初めて私は死に直面する恐怖で体の自由が効かなくなることを知った。

あやかしもうすぐそばまで来ている。 
跳びかからないところをみると私が動けないことをいいことに
焦らずに確実に仕留められると気付いているからかもしれない。

(ど。どうしよう……!)

 恐ろしさに指先がカタカタと震える。
 少しでも、落ち着きたくて無意識に胸元のあやかしをぎゅっと抱きしめた。

「う……」

ふわふわの毛玉がもぞもぞと動く。
閉じられた瞳が静かに開いて、虚ろな視線が私を捉える。

「お……お母ちゃん……」
「え?」

 まじまじと見つめ返すと、ふらつく体をそっと起こした。

「あ……、まだ動かないほうがいいよ!」

慌てて抱き起すも、猫のあやかしの瞳はただ一点に注がれている。
その先にいるのは、今にも飛びかかんばかりに唸り声を上げるあやかしだった。

「え……じゃあまさか」
(あの猛獣みたいなのがこの子のお母さん……なの? )

見比べてみても、ぬいぐるみのような風貌の子猫と、檻から出た猛獣のようなあやかしとではどうみても似つかない。
ふと視線を下げると、はあはあと荒い息を吐いているこの子の傷口。
よく見ればどうやら爪痕のようにも見える。

(母親が子供を襲うなんて……。幾ら何でも酷すぎる!)

今まで恐ろしさで声も出なかったはずなのに、カッとなってあやかしを睨みつける。

「ちょ! ちょっと! 何があったのか知らないけど、自分の子供に手を出すなんて酷いんじゃないの?」

体がかたかたと震えるけれど、それでも言わずにはいられない。
人間の言葉が分かるのかとか、いきなりで襲われたりしたらとか、
そんな細かいことを気にしている余裕はなかった。

「何があったのか知らないけれど、いくらなんでも傷つけるとか……!」

言葉を言う前に、ざあっと風が嘶く。
少し余裕のあったあやかしの顔が一層険しくなり、地響きのような唸り声が鼓膜を震わせる。
鋭い牙がむき出しにされて、じわりと近づいてくる。


(あ……これはやられる) 


直感でそう感じた。
あやかしの瞳に私の顔が映る。
驚きに目を見開かれたような形ではっとした顔で。
鋭い牙が私の喉元に突き刺さる、そんな想像が私の思考を塗りつぶした。

ぎゅっと瞼をつぶって衝撃に備える。
ああ、こんな形で十七年の生涯を終えるとは思わなかった。
私の夢もここで潰えてしまうなんて……。
そう手のひらを固くぎゅっと握りしめた時だった。


「え……っ」


あたりにまばゆい光が走る。
どこか懐かしくて温かいそんな太陽がそこにあるような……。
そのありかを目で追う。
私の胸元。

「……お守り?」

取り出して見れば生地越しにほんのりと光が漏れているのが分かる。
まるで生き物みたいにどくどくと鼓動をしていて、温かさが伝わって来る。
私を勇気付けてくれるかのようにで、心臓がぎゅっとなった。

「どう……して?」

光であやかしの動きが止まったようだ。
まるで私との間に見えない壁がそびえ立っているような。
あっけにとらえる私の頭に祖母の声が響く……。


ーーこれを持っていればきっと龍神様がみいちゃんを災いから守ってくれるよ


本当に……?
目の前の光景があまりにも予想の範疇を超えすぎていて、ただ口を開けていることしかできない。

 (ひょっとして助かる……かも!)

希望に胸が膨らむ。
だってここは龍神様の祀られている龍宮なのだ。
しかし、私の期待は簡単に打ち砕かれることになる。



ぱきり。



何かが割れる音が私の鼓膜に伝わった。
そして一瞬光が鈍く弱まったような気がした。

「あ……っ」

その瞬間、あやかしが唸り声を上げる
ここぞとばかりに攻め立てて、頭突きを繰り返して来る。
そして一瞬、ガラスが崩れ落ちた音がしたかと思うと、私の体は吹っ飛ばされた。


「きゃあ!」


衝撃が体を打ち、ゴロゴロと境内を転げ回る。
そして、ようやく目を開けると、目の前にはあやかしが牙をむきだしていた。

(今度こそ……終わり?)

絶対絶命のピンチに心臓が未だかつてないほどにどくどくと鼓動する。

「……っ」


何が、龍神様だよ! 
これから死ぬかもしれないって言うピンチに助けてくれないなんて。


 ああ! 神様! 仏様! 
 私、まだ死にたくないんです! 

「だ……! 誰でもいいから助けてっ!」

ぎゅっと目を瞑って、声の限り叫んだ。




 しゃらん……



 
耳にキラキラとした音が響く。
その瞬間に私の心臓がどきりと跳ねた。
なんだか懐かしくて温かくて、思わず涙が出てしまいそうな。

そんな気持ちがまぜこぜになってしまう。
どうしてこんな胸の痛みが生まれてしまうんだろう。



「まったく……。さっきから騒々しいな」

天からこぼれてきた、声。

 
はっとして見上げると、鳥居の上に何やら人影が見える。


「ずいぶん騒がしいと思ったら……、なんだ人の子か?」

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