君のキスが狂わせるから
7. 好きになる勇気(最終話)

 結婚前提で付き合いたいという深瀬くんの気持ちがどこまで本気なのか、私はあの日の中では判断することはできなかった。
 付き合うことだけでもあまり遠くのことは考えないようにして頷いたのに、彼は本気で私と結婚しようと思っているようだった。

「すぐにはお返事できないよ」
「いいですよ。でもそんな長いこと考えるようなものでもないと思いますけど」
(むむ……そんな余裕に言われると私が弱虫みたいじゃない)

 こんなところで負けず嫌いを出すのもおかしいので、それは黙っていた。
 ただ、付き合っている事実を会社の人には伏せたいという気持ちを承諾させることには成功した。

「雰囲気でバレそうですけど」
「大丈夫。私たちの所属課は離れてるし……」
「ま、俺は瑠璃さんと付き合えるだけで幸せだし」
「…っ、その“瑠璃さん“も二人でいる時だけだよ? 私は今まで通り深瀬くんて呼ぶからね?」
 
 海斗はその言葉にハイハイと流すように答えると、私を抱きしめながらベッドに倒れ込む。

「っ、海斗…っ、ちゃんと聞いて」
「聞いてる。ねえ、もう一回海斗って呼んで」
「え?」
「……明日から聞けなくなるなら、たくさん聞いておきたい」

(も、もう…っ、だからなんで、そういう可愛いこと言うの!)

 結局私はその日、何度も何度も「かいと」という名前を連呼させられた。
 ただ、不思議と彼からこうして甘えられるのは嫌ではなく、くすぐったい喜びがあった。
(でも、結婚云々については、年上の私が判断しなくちゃいけないんだろうな)

 最近では女性が10年以上年齢が離れていても不自然がないカップルも増えている。
 とはいえ、相手が由緒ある家の御曹司だったり跡継ぎを望まれていることを加味しても、簡単に結婚だけしてしまおうとは飛び越えられないものがあった。

***

 結婚前提に対する答えは保留にしたまま、数日後、私は体調を万全にしてヨガスタジオへ入った。
 更衣室にいたミホ先生は、いつものように穏やかな笑みを浮かべている。
 私はおどおどしないよう呼吸を整え、先生に会釈した。

「こんにちは。先日はご迷惑おかけしました」
「すっかり元気そうね、よかった」
「はい。おかげさまで」
(深瀬くんの話はしないほうがいいだろうな)

 そう考えてスタジオに入ろうとした私をミホ先生の方が止めた。

「愛原さん、もし良ければレッスン後に少し外でお時間もらってもいいかしら」
「はい、大丈夫ですよ」
「よかった。なら着替えを済ませたら外で待ってるわね」

 そう告げて、彼女は薄暗いスタジオへ入って行く。
 いつもの優雅な立ち振る舞いと笑顔から、その心中を推察することは難しかった。

(話って…インストラクター養成講座のこと? ううん、きっと深瀬くんのことだよね)

 この日は、少し難易度の高いアーサナ(体位)も難なくこなすことができた。
 おかげで、呼吸を整えながらシャバーアーサナ(ヨガの最後にとるポーズ)は体が地面に溶けていくような感覚を覚えた。

(すっきりした)

 頭も心もクリアになった私は、ミホ先生とも冷静に向き合える気持ちになっていた。
 スタジオから駅に向かって立ち並ぶいくつかの飲み屋の中から一件のバーを選び、そこでビールとおつまみを頼んだ。運ばれてきたビールを手にし、ミホ先生は笑顔を浮かべる。

「お疲れ様。こうして一緒に外で会うのは初めてね」
「そうですね、先生がビール飲まれるのって意外でした」

 お洒落なグラスに注がれたビールを、彼女は乾杯した後一気に飲み干していた。
 おかわりを頼みながら、彼女はふふっと笑う。

「実はあの子と付き合ってた頃、私、禁酒してたのよ」
「あの子…って、深瀬くんですよね」
「ええ。最初は、それなりにちゃんと付き合いたいと思っていたから」

 ちゃんと、っていうのはきっと子どもができやすい体になるための努力をしてたってことだろう。それを聞いただけでも、ミホ先生が深瀬くんに本気だったのがわかる。

「愛原さんは、海斗と付き合ってるの?」
「……なんとなく、そんな流れになってますね」
(元カノの前でこんなの言うの、辛いなあ)

 でもミホ先生は嬉しそうにうんうんとうなずいた。

< 57 / 66 >

この作品をシェア

pagetop