君のキスが狂わせるから

 ミホ先生がスタジオを去る事がわかった2日後、私は気の抜けた状態で会社の花見に参加していた。
 ライトアップされた白い桜は、圧倒するように私たちの頭上を覆っている。
 まだ風なんかでは簡単には散らないぞ、という強さを保つ姿に、私は安心しながらビールをチビチビ飲んでいた。
 その時、三上さんの黄色い声が鼓膜にきつく響いた。

「深瀬さん耳が赤くなってる。可愛いー!」

 ギョッとして見ると、真っ赤になった三上さんが深瀬くんの肩に寄りかかっている。
 明らかに酔った勢いを利用して彼にしなだれている感じだ。
 深瀬くんは困った顔をしつつも、三上さんとは逆方向にいる社員さんと話を続けている。

「ちょっとぉ、無視はないんじゃないですか?ねえ、私さっきから話しかけてるのよ?」

 絡む三上さんに痺れを切らし、深瀬くんが彼女を見る。

「無視も何も…三上さんと俺、別に何も会話してないじゃないですか」
「あっ、こっち見てくれた!」

 深瀬くんの顔を見た途端、三上さんはニコッと嬉しげに頬を緩ませる。
 驚くほど分かりやすい人だ。

(私もこんな感じなんだろうか…だとしたら気をつけないと)

「会社ではツンツンなんですから、今日は甘い顔を見せてくれてもいいんじゃないですか?」
「甘い顔……? なんであなたに?」
「わ、傷つく。愛原さんには優しいくせにー。あ、もしかしておばさんには優しいタイプ?」

 自分の名前が出てさらにギョッとなる。
 まさかここで彼女が私の話を出してくるなんて想定外だ。

(会社では付き合ってるの内緒にしとこうってなってるのに、話題にされると面倒だよ)

 ハラハラして見ていると、深瀬くんは淡々とした口調で言った。

「彼女は俺の特別ですから、優しくするのは当然ですよ」
「…っ!」

 私を含め、その場の皆が凍りついたようになる。
 深瀬くんはごめんというような視線で私を見つめ、少し黙った。
 その姿に思わず私も立ち上がり、三上さんを見た。

(会社にいられなくなるかもしれない。でもいい、私はこの人に馬鹿にされながら過ごす時間にはもう…うんざりなの)

 お酒の力があったからなのか、不満が溜まりすぎていたせいなのか。
 とにかく私は今まで我慢していたことを、三上さんに向けて言った。

「三上さん…私、自分をおばさんとは思ってないの。年齢はいってても独身だし、恋愛くらい自由にさせて?」
「な……え、恋愛って、まさか付き合ってるんですか?」
「深瀬くんと私が付き合うのって、そんなに不思議なことでしょうか」

(言ってしまった)

 ザワッとする会場の雰囲気を感じて、心臓がバクバクしてくる。
 耳の奥がキーンと鳴るのに耐えられなくなり、私は自分の飲んでいたビールの缶だけ持ってその場を後にした。

(大人じゃない……この対応は、やっぱり子どもだ)

 情けない気持ちで人混みをかき分けるように進んでいると、後ろから腕を掴まれる。

「瑠璃さんっ、待ってください」
「…っ、深瀬…くん」

 彼は呼吸を整えながら私を見た。
 追ってきてくれたことは嬉しかったけれど、今後のことを考えるとやはりまだ心臓がバクバクしている。
 でも彼は私のことだけを心配している様子で、特に後ろを振り返ったりはしない。

「俺があんなこと言ったから、勢いで言ったんですか? 俺、余計な事言いましたよね」
「ううん…深瀬くんは悪くないよ。私がずっと言えずに溜めてた気持ちだから。でも、酔いの席だからってなんでも口にしていいわけじゃないよね」

 話しながら少しずつ冷静さを取り戻した私は、急に自分が口にしてしまったことが恥ずかしくなる。
 あれでは私が自ら深瀬くんとのことをカミングアウトしたことになる。

「ごめんね、私から会社では内緒にしとこうって言ったのに」
「いえ、俺が先に“俺の特別な人“なんて言ったので……お互い様ですよ」

 どこか緊張感の抜けた彼の口調にほっとし、私もようやく肩の力を抜いた。
 すると彼は私の手からビール缶を受け取り、耳元で囁いた。

「こうならったら、このまま二人で抜けちゃいましょう」
「え、でも…」
「さっき見たら、幹事がもうほとんど片付けも終えてましたし。多分今頃お開きになってると思いますよ」

(そっか…なら大丈夫かな。でも……)

 幹事の子が扮装している様子が目に浮かび、やっぱり胸が痛む。

「やっぱり私…」
「瑠璃さん。俺と一緒に逃げてよ、今夜だけ…お願い」
「……」

 私は深瀬くんの握る手を振り解けなかった。

(ああ、私……悪い人間だ)

 35歳にして初めて、社会人としての枠をはみ出す自分を感じた。
 大袈裟かもしれないけれど、それくらい私はずっと世間的ないい子ちゃんだったのだ。

 私は深瀬くんと手を繋ぎ、花見客でごった返す公園を息を弾ませながら走り抜けた。
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