君のキスが狂わせるから

 次の日の始発で自分の部屋へ戻り、着替えを済ませて会社へ向かった。
 心なしか気持ちが軽く、周囲の人が以前より優しく見えた。

(目で見てるものって、やっぱり自分の認識次第で変わるんだな)

 そんなことを思いながら、自分の席につくと、すでに出社していた幹事の子が廊下を通ったので、慌てて呼び止める。

「谷田川さん!」
「愛原さん、おはようございます。昨日大丈夫でした?」

 私の顔を見るなり、彼女はそう言ってくれた。
 責める感じもなく、かなり心配してくれた様子だ。

「ごめんね、昨日突然帰っちゃって。今日ランチご馳走するよ」
「えっ、本当ですか。でもそんなの気にしなくていいのに…三上さんなんて一番飲んでたのに、子どもが心配って言って帰っちゃったんですから」
「そっか……でも私の気持ちがおさまらないから」
「じゃお言葉に甘えまーす。その時、色々聞かせてくださいね、深瀬さんとのこと」
「っ!」

 谷田川さんはニコッと笑うと、そのまま自分の持ち場へと歩いていく。
 そのはつらつとした後ろ姿に私はほっと安堵した。

(自分以外の人の気持ちって、言葉にしてみないとわからないものだなあ)

 私の気持ちが前向きになったせいか、周囲の反応や対応も変わった気がする。
 三上さんも一応挨拶だけはしてくれるようになり、仕事上は問題のない人になった。

 もう一人じゃない。
 その想いが私を強くしていた。

***

 それから数ヶ月。
 私や私の周りでは、本当に色々なことがあった。

 私はミホ先生がスタジオを去った後も、インストラクター講座は続けていて。
 つい先日その全過程を無事終了させた。
 だからといって講師になったわけではなく、ヨガは日課にしながら今も経理で働いている。

 大きな変化があったのは美桜先輩だ。
 やっぱり予感していた通り、海斗のお兄さんの子を身篭ったのは美桜先輩だった。
 近々再婚すると、一応…という感じで連絡がきた。

 彼女は今が幸せだと、今までになくおっとりとした口調で語った。
 ただ、私と海斗が付き合っていることを聞いて、やっぱり多少は怒っていた。

「瑠璃ちゃんってそういうところがすごいよね」
「何がですか」
「ガツガツしてないのに、しっかり押さえてくる感じ??」
「……そう見えますか?」

(だとしたら問題だわ)

 深刻に悩みかけていると、美桜先輩は電話の向こうで笑った。

「ウソ。私の方がずっとしたたかで嫌な女だよ。分かってる。きっと恨まれるし…祝福もされない」
「……」
「いいの。私は真斗さんさえいれば。彼だけ味方になってくれたら、それでいい。お腹の子どももいるし……何も怖くない」

(真斗さんと離婚した奥さんのことは考えないのかな)

 そうは思ったけれど、新しく芽生えた命に対しては何も言うことはできなかった。

「美桜先輩の気持ちはわかりました。でも…私は先輩のご結婚を、今は心から祝福できないです。ごめんなさい」
「うん。ありがとう、本音を言ってくれて」

 いい子ちゃんをやめた私を、美桜先輩は普通に嬉しく思ってくれているように聞こえた。
 先輩の立場にならないとわからない気持ちというのもあるのかもしれない。 

「お体に気をつけて」
「ありがと。瑠璃ちゃんも海斗くんとお幸せに。もし結婚するなら義理の姉妹だけど…私たち顔を知らない同士になった方がいい気がする」

 先輩の過去をあれこれ知っている私を巻き込まないようにという、先輩なりの気遣いなのだろう。それを思うと、やはり悪い人ではないんだよね……とは思う。

「……そうですね、もしそんな日がきたら、そうします」

 こうして美桜先輩と最後の会話をし、私たちは新たなスタートを切ることになった。
 とはいえ、海斗は特に一族に絡む気は全くないようで。 
 「深瀬海斗」として、以前よりさらに生き生きと企画室で働いている。
 人気は相変わらずで、今も営業に呼ばれてはそのイケメンぶりを遺憾なく発揮している。

 そんなクールでイケメンの海斗だが、私と二人きりになるとかなり甘えた部分を見せるようになっている。

「ねえ、婚約指輪買おうか」

 こんな風に海斗が焦ったように言うのは、私が彼に対してあまり嫉妬心を起こさないせいだ。
 こうして二人きりでデートできたのは二週間ぶりで。
 「久しぶりだね」と言った海斗に対して私が「忙しい時は仕方ないよね」と答えたのが気に入らないらしい。

「指輪なんかなくたって私たち仲良しでしょ。問題ないと思うけどな」

 ドライなつもりはないけれど、ここは急ぎすぎてもいけない気がした。
 だからそういう意味で答えたのだけれど、海斗は落胆気味にはぁとため息をつく。

「瑠璃さんさ、もう少し俺を縛っておこうとか思わないの?」
「縛るなんて、そんなことできないよ」

 私は本心から、彼は縛っちゃいけない人だと感じている。
 自由を奪ったって、空を飛びたい鳥はきっといつか籠から出てしまう。
 自由があった上で私を選び続けてくれるなら、そんな嬉しいことはない。

「海斗と私は別の人間。だけど、お互い求めるものがあるから一緒にいる。今はそれだけで十分幸せなんだよ、私」

 たくさんのものをリリースした私も自由になっていて。
 今は新しいものを取り込む時期みたいだ。
 海斗の愛を受け入れ、仕事を通しての経験を吸収し、ヨガから学ぶ自己も大切な宝だ。

「駄目だ。瑠璃さんはこのまま放っといたらどっか行っちゃいそう」
 
 そう言って、海斗はその足で私を宝石店に連れて行った。
 少し驚きながらも、私も海斗のそういう少し強引なところも好きなのでちょっと幸せを感じる。
 結局、一生ものだということでオリジナルの婚約指輪を作ってもらうことになり、その完成を待って入籍もしようということになった。
 その間に結婚指輪も買ってしまいそうな勢いだ。

「はあ、本当に海斗は突然押しが強くなるよね」
(突然のキスで私の心が乱れ始めたのと同じだ)

 すっかり暗くなった頃、外灯のついた公園を散歩しながら私はほっと息を吐く。

「迷惑?」
「ううん、ただ私、海斗が心配してるようなことないよ? どっか行っちゃうなんて絶対ないし」

 ぎゅっと握っている手に力を込めてやると、海斗は嬉しそうに微笑む。

「わかってるけど……早く一緒になりたいんだ。もうデートの後にバイバイって言うの寂しすぎるし」

(その理由可愛いすぎるかも)

 私が微笑んだのに気づいて、海斗は耳を赤くさせた。

「あ、またそうやって笑う。子ども扱い反対!」
「違うよ。海斗が愛おしいから……つい頬が緩むんだよ」
(これ以上好きになったら、私の方から海斗の部屋に転がり込んじゃいそうだよ)
「ならいいけど」

 顔を見合わせ、ふふっと笑った後、軽くキスをした。
 すると海斗の表情が急に大人びて、私の腰をぐっと抱き寄せる。

「やば…止まんなくなる」

 周りに人がいないのをいいことに、さらに深いキスをさらに重ねてくる。
 私も少し抵抗を示したけれど、キスが心地いいからそのまま受け入れた。

 いつの間にか桜は全て散って、すっかり初夏の装いを始めた5月。
 私は10歳も年の離れた男性からのキスで、すっかり心を持っていかれたのだった。

 人生は計画通りにいかない。
 大事にしていたって失うこともあるし、思いがけない人から大切にされることもある。
 そんなままならない人生だから、今の自分を大切にすることを一番に考えたほうがいい。
 
 私は常に海斗と一緒にいられる「今」に感謝をしながら生きていく。

〜〜〜 終わり 〜〜〜

*最後までお読みくださり、ありがとうございました。
 ホテルへ行った夜のことを番外編で書きました。
 よろしければ、そちらも併せてお読みくださいませ。
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