"さよなら"には早すぎて、"はじめまして"には遅すぎる
静かな部屋に小さな寝息が聞こえ始めた。
呼吸はまだ荒い。頬も熱いままだ。


「なんで言わねーんだよ」


深いため息を溢し、男は壁に背を預けた。


今日みたいな日に琴音が彼の部屋に近づかないことを知っていた。琴音が辛いことや苦しいことを飲み込むことも知っていた。


「言えるわけないよな」


ハッと自嘲気味な声を漏らし、目を閉じる。


冷蔵庫の前に置かれた大量のレジ袋。食品だけは冷蔵庫に全部入っていて、日用品ばかりが残されていた。

洗剤と柔軟剤を何種類も買ってくることはいつものことだったが、それを放置していることは今までなく、男は心臓がヒヤリとした。

玄関のスニーカーにホッとし、部屋を覗いてみれば蒸し暑い部屋の中で琴音が倒れていた。

思い出すだけでも心臓が凍る。


救急車を呼ぼうとしたが、結局呼ばずに看病し、さっき琴音が意識を取り戻すまでずっと神経は張り詰めたままだった。

この二年間、琴音が体調を崩すことはなかったが、これからもこういったことは起こりうる。


男は再度深くため息をつき、弱ったように小さく呟いた。


「頼むから、"ーーーーーーーー"。」


最後はあまりに小さくて、琴音が起きていたとしても聞き取ることは出来なかっただろう。


身動いだ拍子に何かがクシャリと音を立てる。それは倒れていた琴音の側に落ちていた誰かの電話番号が書かれた紙だった。


「誰だよ、これ」


男の綺麗な顔が不機嫌そうに歪められ、気付く。

さっき自分が呟いた言葉と、今自分が抱いた感情とが一致しない。その気持ち悪さに呆れるしかなかった。
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