"さよなら"には早すぎて、"はじめまして"には遅すぎる


襖をそっと開けると、部屋はサウナのように蒸し暑かった。その部屋の中央に男の妻が寝そべっていた。


『琴音?』


返事がないので慌てて駆け寄り、琴音を抱き上げる。呼吸が荒く、大量に汗をかいていて、唇はパサパサに乾燥していた。

脱水症状を起こしているかもしれない。

すぐに救急車を呼ぶため、部屋を出ようとする男の服の袖を琴音は朦朧とする意識の中、弱々しく掴み、小さな掠れ声で何事かを呟いた。


『……で、』


あまりに小さな声で聞き取れず、男が耳を近づける。


荒い呼吸に埋もれる微かな声は『行かないで』と、言っていた。熱にうかされて出た譫言だったかもしれないが琴音の本心だ。


男は眉間にシワを寄せ、軽く唇を噛む。

言いたいことは山ほどあるのに、言える言葉が少ない。
それが男を苦しめた。


『………琴音、聞こえるか?』


男の声はどこか掠れていて、聞き取りにくい。
目蓋を開く元気はない、音もぼんやりとしか聞こえない琴音には反応を示すことは出来なかった。


けれど彼女は、彼が苦しんでいるような気がして、必死で意識を繋ぎ止めていた。

男は琴音に意識がないと判断し、ギュッと彼女を抱きしめる。

ほんの少しだけ香る、甘い香水の匂い。それは琴音が大嫌いな匂いだった。


それでも、そのぬくもりは彼女にとって幸せそのもので、この夢がずっと続けばいいのに、と切に願わずにはいられなかった。


それが夢か現実か。

知っているのは男だけだ。

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