策士な御曹司は真摯に愛を乞う
「……? あ」


私は首を傾げたものの、すぐに思い至った。
彼はきっと、私がエスカレーターから落ちた時のことを、思い出したのだろう。
私の事故を自分のせいだと思っている鏑木さんにとって、こういう些細なことでも苦い記憶の引き金になってしまう。


「私こそ、すみません」


私は、彼の視線を背中で感じながら、今度は意識してゆっくり階段を下りた。
リビングに降り立つと、そっと見上げる。


「大丈夫です。ほら」


意識して明るく声を張って、両手を広げて見せた。
彼も強張りを解き、小さな吐息を漏らす。


「ああ。……よかった」


言葉通り、安堵した笑みを浮かべる鏑木さんに、私の心臓はドキッと跳ねる。
私が想像する以上に、私を気にかけてくれている。


どうして? 何故?
いつも浮かぶ疑問は、のみ込んだ。


「……ありがとう、ございます」


今はただ、鏑木さんの気持ちが伝わってくるから、お礼を言うしかなかった。
私が客間に足を向けるのを見送って、彼も再び階段を上っていく。


私は、客間の前で一度立ち止まり、螺旋階段に視線を向けた。
そこに、鏑木さんはもういない。


――私は、なにを忘れてしまったんだろう……。
とても大事な記憶を失ってしまっている気がして、思い出せないことが歯痒い。
私は俯いて、唇を噛んだ。
< 47 / 197 >

この作品をシェア

pagetop