その上司、俺様につき!
「あー、やばい。マジで恋しちゃうかも」
―――こんな風に、突然ボソッと独り言をつぶやいてしまうほどの重症。
「遠藤」
ハッと口を押さえるも、時すでに遅し。
「……な、なんでしょうか?」
「集中しろ」
ヒヤヒヤしながら返事をすると、ものすごく機嫌の悪い声でシンプルに注意された。
「は、はい……申し訳ありません……」
震える声で謝罪し、慌ててデスクに意識を戻した。
資料を広げたまま、広げてから1ミリも進行していない作業を再開する。
(こんなにも仕事以外の物事に、心を奪われるなんて……)
業務に集中しすぎて時間を忘れることはあっても、誰かのことを考えて我を失うことなど、今までになかった。
深い呼吸を数回繰り返して、気持ちを入れ替える。
―――だが何度気持ちを入れ替えたところで、私の心を乱す元凶はまさに今、私の目の前にいるのだ。
総務部時代、夢中になって課金していたスマホの恋愛ゲームも、今朝データをすべて消去してしまった。
アップデートの通知が来たことで、自分がそのゲームに登録していたことを思い出したくらい、記憶のかなたに消えていた。
どうしてあんなものにあれほどハマっていたのか、自分でも不思議でしかたがない。
(だって、液晶画面の中よりも、現実の方がよっぽど―――!)
出会った頃より少しだけ伸びた髪が、形のいい額に落ちている。
最近気づいたのだけれど、久喜さんは考え事をする時、決まって右肘を机について手の甲に顎を乗せる。
そうして少しうつむくアングルになると、長い睫毛が瞬く様が私の席からつぶさに見てとれるのだ。
(もしロダンが生きてたら、ぜひ彫刻を作らせてくれって彼に懇願するに違いないわ……)
フランスの街角でポーズをとる久喜さんと、それをスケッチする彫刻家。
(むしろ、その2人の図を私が絵に描きたいくらい!)
想像するだけで、うっとりとため息が漏れる。
脳内に愛を歌うシャンソンが、ねっとりと流れた。
「……はあ」
「遠藤!」
狙い澄ましたかのようなタイミングで、久喜さんの怒号が飛ぶ。ひやっと肝が冷えた。
「す、すみません!」
そうして私は冷や汗をかきながら、本日十数回目になる謝罪の言葉を口にするのだった。
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