その上司、俺様につき!
まことしやかに囁かれている噂では、久喜さんは今年で32歳になるらしい。
彼が新卒の22歳でアスタルテに入社していたとしても、まだ10年目。
その勤続年数で1つの部署を任されて社長とも直接話ができるなんて、社員の平均年齢が高い我が社では異例中の異例だ。
一般的に、男性社会では抜きん出て出世すると、叩かれたり足を引っ張られたりすることも多いのに、久喜さんにはそういうやっかみが一切ないことも不思議だった。
息をするように建前と本音を使い分ける、食えない営業部の元上司達でさえ、彼にはかなりの敬意を払っている。
(それだけ、純粋に能力を認めているってことなのかも?)
一番近くで仕事をしている私ですら、久喜さんが何者なのか、未だにつかめていない。
(自宅の住所と部屋のインテリアは知ってるけど……)
目を閉じれば、まだはっきりと思い出せる。
部屋の雰囲気も、温度も、匂いでさえも。
(あんな時間、もう二度と経験できないんだろうな……)
幸福な過去の記憶に浸ってしまいそうになり、ハッと自分を現実に引き戻す。
(ようやくまともに働けるようになったのに、ここで思い出に浸ってちゃ、今までの頑張りが台無しだわ!)
ここ最近は仕事のこと以外、極力何も考えないように努めている。
相変わらず久喜さんは1日に何度か私を凝視してくるけど、それは彼独特の治らない癖なのだと思い、特別な意味などありはしないと自分に言い聞かせていた。
「ふう……」
午後の面談が始まるまで、あと15分ある。
空腹のまま挑んでもよかったが、せっかくだし軽食でも摂ろうと、財布を手に立ち上がった。
「―――っ!」
突然ガバッと立ち上がったせいか、久喜さんを驚かせてしまったようだ。
「ん、んんっ」
気まずそうに咳払いをしている。
「あ……すみません。これから、ちょっと下のカフェに行ってきます」
一瞬しっかり目が合ったが、すぐに私は目を伏せて彼から視線を逸らした。
「……今からカフェに?」
「はい。次の面談の5分前には必ず戻りますので」
椅子にかけていたカーディガンを羽織りながら、久喜さんに最低限の用件のみを告げる。
「わかった」
「……行ってきます」
何でもない振りをしているけど、本当は誰よりも彼を気にしていた。
久喜さんが視界にいる時はもちろん、いない時でさえも。
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