パンデミック.新形コロナウイルス
真夜中の病院の物語
消灯時間をとうに過ぎた院内は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、冷たい消毒液の匂いだけが廊下に淀んでいた。
ナースステーションのわずかな明かりが、誰もいない廊下に細い光の帯を落としている。その光の届かない闇の中に、ひとりの男が立っていた。保健室の片隅や、誰にも見向きもされない場所の空気によく似た、重たくて冷たい影が彼の周りを囲んでいる。
彼は、この病院の一室で静かに眠る少女を見つめていた。
世間の人間から見れば、彼女は「ただの入院患者」であり、あるいは「守られるべき弱い存在」で片付けられるかもしれない。誰もが口を揃えて「可哀想だから」と言い、同情の言葉を投げかける。しかし、彼はそんな薄っぺらい憐れみなど微塵も持ち合わせていなかった。
彼が彼女に引き寄せられたのは、世間が言うような正義感でも、善意でもない。
他の誰にも聞こえない、彼女がふともらす微かな咳払いの音。その一瞬の響きだけに、彼の神経のすべてが捉えられてしまったからだ。世界中の誰もが通り過ぎていく中で、彼女の存在だけが、彼の歪んだ、しかし誰よりも純粋な執着の網に引っかかった。
部屋のドアをそっと開けると、薬の匂いと、微かに汗ばんだ少女の体温が混ざり合った独特の空気が鼻を突いた。
綺麗に掃除され、何もかもが菌や汚れから守られた無菌室のような世界。世間の人間はそれを「清潔で美しい」と好む。けれど、そんな完璧に磨き上げられた綺麗な状態に、彼は何の実感も覚えない。
生きていれば、人は汚れる。熱を出せば汗をかき、時には泥を被り、互いの不完全な部分をぶつけ合う。そこから目を背けて、お互いに傷つかないように、幻滅されないようにと綺麗に取り繕った関係なんて、ただの虚構だ。唾液や汗、隠したいはずの生々しい営みを含めて相手のすべてを受け入れることの何が汚いのか。むしろ、何一つ汚れがつかない綺麗な関係なんて、相手に触れていないのと同じではないか。
彼はベッドの脇に歩み寄り、眠っている彼女の冷えた指先にそっと触れた。
消毒された手すりでも、マニュアル通りの看護でもない、そこにあるのは生身の人間が発する確かな体温だった。
世間の人間はこれを「異常だ」と言うかもしれない。利害関係と損得勘定でしか人と繋がれない彼らには、この泥臭くも深い執着の正体など到底理解できないだろう。だが、それでいい。綺麗事の裏に隠された人間のドロドロとした本音こそが、彼らにとっての真実なのだから。
窓の外では、夜の闇がさらに深く、静かに世界を包み込んでいこうとしていた。
< 383 / 417 >

この作品をシェア

pagetop