パンデミック.新形コロナウイルス
病院の自動扉をくぐり、消毒液の匂いが鼻腔を満たした瞬間、ようやく現実の輪郭がはっきりと定まった。
すれ違う看護師たちが、新しい白衣を纏った僕を見て軽く会釈していく。誰もが「おめでとうございます、先生」と口にする。その声には、この社会が定義する「立派な若者」に対する称賛と、心地よい安心感が含まれていた。彼らは知らない。この白い布が、善意や救済のシンボルなどではなく、僕の歪んだ執着を完全に隠すための、最も安全な隠れ蓑にすぎないということを。
当直のカルテを一枚めくり、僕はあかりの病室の番号を確認した。
文字の羅列の裏側で、あの小さな咳払いの音が耳の奥で蘇る。あの音を聞いた瞬間から、僕の時間はすべてあの部屋で止まったままだ。世間の人間が言う「青春」だとか「将来の夢」だとか、そういう眩しい言葉はすべて他の誰かにくれてやればいい。僕の未来は、あの冷えた手をとるその瞬間のためにしか存在していなかった。
夜の帳が完全に下り、院内の音が嘘のように消え去るのを確認してから、僕はゆっくりと歩き出した。
廊下の蛍光灯が一定間隔で並び、足音だけが静かに響く。
目的の病室のドアノブに手をかける。金属の冷たい感触が手のひらを通じて伝わってくる。鍵はかかっていない。いや、たとえかかっていたとしても、今の僕にはそれを開ける正当な権限がある。医者という特権が、あらゆる障害を取り払ってくれた。
ドアを押し開けると、昼間とは違う、少し淀んだ、けれど僕にとっては世界で一番馴染み深い空気が迎えてくれた。
カーテンの隙間から、青白い月明かりがベッドの上のあかりを照らし出している。
眠っている彼女の寝息は相変わらず静かで、外界の残酷さや、人間たちが繰り広げる薄っぺらい損得勘定のドラマなんて、どこ吹く風といった様子だった。
僕は靴音を殺してベッドの脇に歩み寄り、パイプ椅子に腰を下ろした。
ポケットから国家試験の合格通知書を取り出し、音を立てないようにそっとサイドテーブルの上に置く。そして、ためらうことなく白衣の袖をまくり、あかりの冷たい手を包み込んだ。
「……受かったよ、あかり」
誰もいない、闇に沈んだ部屋で、僕は低い声で呟いた。
これで、誰も僕たちを引き裂くことはできない。世間がどんなに「時代の流れだ」と嘆き、ウイルスへの恐怖や理不尽な理由で人と人とが簡単に切り捨てられていく時代だとしても、ここにある繋がりだけは、誰にも汚すことはできない。
綺麗な言葉も、大げさな思い出もいらない。
ただそこに彼女がいて、僕がいて、生身の体温が重なり合っている。その事実だけで十分だった。
すれ違う看護師たちが、新しい白衣を纏った僕を見て軽く会釈していく。誰もが「おめでとうございます、先生」と口にする。その声には、この社会が定義する「立派な若者」に対する称賛と、心地よい安心感が含まれていた。彼らは知らない。この白い布が、善意や救済のシンボルなどではなく、僕の歪んだ執着を完全に隠すための、最も安全な隠れ蓑にすぎないということを。
当直のカルテを一枚めくり、僕はあかりの病室の番号を確認した。
文字の羅列の裏側で、あの小さな咳払いの音が耳の奥で蘇る。あの音を聞いた瞬間から、僕の時間はすべてあの部屋で止まったままだ。世間の人間が言う「青春」だとか「将来の夢」だとか、そういう眩しい言葉はすべて他の誰かにくれてやればいい。僕の未来は、あの冷えた手をとるその瞬間のためにしか存在していなかった。
夜の帳が完全に下り、院内の音が嘘のように消え去るのを確認してから、僕はゆっくりと歩き出した。
廊下の蛍光灯が一定間隔で並び、足音だけが静かに響く。
目的の病室のドアノブに手をかける。金属の冷たい感触が手のひらを通じて伝わってくる。鍵はかかっていない。いや、たとえかかっていたとしても、今の僕にはそれを開ける正当な権限がある。医者という特権が、あらゆる障害を取り払ってくれた。
ドアを押し開けると、昼間とは違う、少し淀んだ、けれど僕にとっては世界で一番馴染み深い空気が迎えてくれた。
カーテンの隙間から、青白い月明かりがベッドの上のあかりを照らし出している。
眠っている彼女の寝息は相変わらず静かで、外界の残酷さや、人間たちが繰り広げる薄っぺらい損得勘定のドラマなんて、どこ吹く風といった様子だった。
僕は靴音を殺してベッドの脇に歩み寄り、パイプ椅子に腰を下ろした。
ポケットから国家試験の合格通知書を取り出し、音を立てないようにそっとサイドテーブルの上に置く。そして、ためらうことなく白衣の袖をまくり、あかりの冷たい手を包み込んだ。
「……受かったよ、あかり」
誰もいない、闇に沈んだ部屋で、僕は低い声で呟いた。
これで、誰も僕たちを引き裂くことはできない。世間がどんなに「時代の流れだ」と嘆き、ウイルスへの恐怖や理不尽な理由で人と人とが簡単に切り捨てられていく時代だとしても、ここにある繋がりだけは、誰にも汚すことはできない。
綺麗な言葉も、大げさな思い出もいらない。
ただそこに彼女がいて、僕がいて、生身の体温が重なり合っている。その事実だけで十分だった。