恋の蛇足
それから彼は平日にも私の部屋で夕飯を食べることが多くなった。
私に料理する気力がない時は一緒に外食をしてから、私の部屋に来ていた。

ただ、私が残業などで断ると会社近くのファーストフードやらファミレスやらに寄ることが嫌だった。
正確に言えば、残業が終わって待ち合わせをする度に、不定期に事も無げに『今日はあの人とご飯食べました』と報告されることが苦しかった。

きっと、そんな小さなことからだったと思う。
不満に思ったことを真っ直ぐに伝えた方がいいのは世の常なのに、どうして言えなかったのだろう。

多分最初は食べ方に対しての小言を言った。
最初は気にしてはいなかったのに、他の誰かと食事をする時にその姿を見せていると思ったら何故か無性に嫉妬が込み上げてきた。
ただそんなことも言えず、他の人と食べる時のことを思って優しく指摘してることにしていた。
今思えば、ただのエゴと思われても仕方ないのに。
でも、彼は素直に返事をしても絶対に直らなかった。
「家族とご飯食べること、ほとんどなかったから気にしてなかった」
その口調は言い訳がましくもなく、ふて腐れても哀れみを受けたい様子もなく、ただの事実を話すようだった。
だから、他の誰かに注意されることがあったら困るのだ。
それが、彼のことをよく知るきっかけになってはいけないのだ。

大したことではなくても積み重なると、苛立ってくるのはきっと私だけではなかった。

------------------------------------

「いただきます、くらい言いなよ」

いつもみたいに半笑いで誤魔化されることを想定していたのに、彼は眉間に皺を寄せて困った顔をしていた。

「言った方がいいんだろうけど。お礼は言ったけど、それとどう違うの?」

「え、いや、えーと……」

彼が小声でため息をついて、死んだような目をした。

「常識がなくてごめん」

これ以上入ってくるな、と聞こえた気がした。

「あ、ううん、私も」

私がいけないのかという考えと、自分の当たり前だと思っていた感覚の理由を伝えることの難しさで思わず閉口した。
ご飯粒を残すのも早食いもながら食いも、私が許せればそれでよかったのに。

「僕、放任で育てられたんでそういう常識ないんですよ」

その冷たい口調に背筋が凍って頭が回らなかったが、何か尤もなことを言おうとすると彼を否定するようで言葉を探した。

「そういうことじゃないと思う」

そう言った瞬間に何に対してか分からない憤りが溢れだしてきて、私は強く唇を噛み締めた。
と、同時に彼に唇を塞がれていた。

「なんで、今」
「分からないです」
「意味分からないよ」

なんでそっちがムカついてるの。
なんで敬語に戻っているの。

そう口にする前に彼が苛立ちをぶつけるように激しくキスをしてきて、意識がとびそうになって何も考えられなくなった。
あまりの激しさに、気付くと唇が切れていた。


翌朝、むき出しの二の腕を擦られて目覚めた。
隣に目を向けると、彼が私を見つめていた。
その心地よさに身を委ねて、もう一度目を瞑ろうとすると彼の声が鼓膜を震わせた。

「別れたら会わなくなります?」

数時間前まで私に這わせていた唇で、彼は縋るでもなく『朝ごはんどうする?』と同じトーンで言った。
何と返したか全く覚えていないけれど、私のことだから彼にとって都合のいい返事をしたのだと思う。

それが恋人としての別れの言葉だったらしく、私たちはそれから、たまにうちでご飯を食べて雑談するだけの関係になった。
付き合う前の関係とは違って、この先何かが生まれる訳ではない関係だと分かっていた。

私は、自分の恋にきちんと決別する機会を失った。
< 7 / 10 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop