小説家の妻が溺愛している夫をネタにしてるのがバレまして…
「詩乃ちゃん、まだお仕事するの?」

「うん。郁人くんは寝る?」

「明日も仕事だからね。」


夜23時過ぎに就寝前の挨拶を交わすと、毎夜お互い別々の寝室で眠りにつく。


小説の中のヒーロー、彼をモデルにした衣玖斗は俺様かつ甘えん坊な性格で、主人公と甘々な夜を過ごすためにベッドに潜り込んでくる。
郁人くんと衣玖斗。
ただ漢字を変えただけの安直な名前設定。


響きは同じでも、現実と妄想じゃあ全く違う。


「………郁人くん…」

「ん?」


彼の『おやすみ』という言葉を遮るように私は呼び止めたけれど、次に続く言葉など全く考えてなくて。


「……たまには…一緒に寝たい…」

「…………」


精一杯の頑張りで欲求不満アピールをしてみた。


「……無事に締め切り間に合ったら…ね?」


と、頭をポンポンと撫でられながら断られる。
でも、この『頭を撫でられる』という行為で舞い上がっている自分がいるのも確かで…。


(………すぐに幸せだって感じる私も大概だな)


「おやすみ」

「うん、おやすみ」


今、私を想って郁人くんは断った。
だから、その想いやりを無駄にしちゃいけない。
気を引き締めて執筆するべく、自分の部屋のドアを開ける。



その時だった。



「……忘れてた」



その一言だけ聞こえると、手首を引っ張られて背中全体に自分のものではない熱を感じる。


「えっ…」


それは小説の中で何度も書いた憧れのバックハグというもの。
状況を整理するのにいっぱいいっぱいになり、頬にはカッと熱を帯びた。


「充電…。………お仕事がんばれ。」


耳元で囁かれると甘い声が直接脳に響いて、頭が真っ白になる。


「が……がん、ば…る…」


震えた声でそう言うことしかできない。


あまり手を出してこないくせに、時々の甘さと好意に溺れそうになっていることを…



きっと彼は知らない。
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