黙って俺を好きになれ
遊びじゃない。・・・だとしたらあなたにとって私はなんですか。心の中で呟く。

「俺にとってお前は」

そこまで言いかけた矢先、小暮先輩の胸元で唸り出したバイブレーションの音。いったん言葉を切った先輩は上着の内ポケットからおもむろにスマホを取り出すと、そのまま反対側の耳に当てて応答した。

そのつもりはなくても車内は静かだし、ところどころ相手の声が洩れ聴こえる。離してくれればいいのに密着したままで自分のほうが気が気じゃない。

リクドウカイがどうとか、人の名前。相手は格上なのか敬語で話をしていた。

「・・・八島(やしま)さんと張り合うつもりはありませんよ、佐瀬(させ)に噛み付かれるのはご免ですから。なかなかの狂犬ぶりだそうですね」

できるだけ視線をよそに移して、先輩の低く透る声をわざと聞き逃す。シニカルに嗤った気配に、知ってるはずなのに知らない人のような感覚に陥った。

・・・そうじゃない。私はなにも知らない、この人のこと。あの頃だって現在(いま)だって。なにも分かってないで一緒にいる。距離はゼロなのに・・・自分の手にはなにも掴めていない。気がする。

長いやり取りじゃなかったと思う。でもなんだか5分も10分も経ったような。

「悪いな。仕事の話だ」

通話を切り内ポケットにスマホを仕舞い込んだ先輩が、肩に乗せていた掌で私の髪を撫でた。

“俺にとってお前は”・・・の先を聞きたかった。言ってくれたなら。自分の中で宙に浮いたきりの気持ちがどこかに、着地点を見つけられたかもしれなかった。



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