ビッチは夜を蹴り飛ばす。


「ありがとう、硯くん」

「ほんとにな。もう当分勘弁して」


 そいじゃ、と潔く去ろうとする硯くんの服の裾を引っ掴む。無傷だけど無茶をしてぼろぼろになった服は酷い裂傷を受けていて、それを見たら、もうなんかだめだった。

 ぶわあ、と目から涙が溢れ出た。

 うわ出てくんな涙、って思うのに、あとちょっとの辛抱だったのに後から後から溢れてくる。おまけにうぇ、え、と子どもみたいな嗚咽が漏れる。


「どうした突然」

「こ、こわか、こわかっ、た」

「うん。なんかされた?」

「う、ぅま、馬乗りになられてなんかマウンティングみたいなんされてっ、」

「あー、典型的なやつだ」


 実は、栃野にキスされる前もよくわからない奇行を受けていた。でも言葉にして説明するのも気が引けたし思い出さないようにそうじゃないって思い込むようにしてたけどそうじゃない。あたしが受けた被害は実際に起こった、紛うことなき真実だ。


「なっ、なんでもっ、はやっ、きてくんなかったの、っ」

「うんごめん」

「あ、あたしっ、あたしすっ、好きでもないひどに無理やりキスされてっ、」


 こんなこと言ったって仕方ないし、通算28回鬼電した事実も、それでも硯くんが遅れてでもヒーローとしてあたしを助けてくれたのは紛れもない事実だってのに頭が混乱してこれじゃ面倒くさいこと山の如しだ。きっと面倒って思われてる。てかめんどくさいって前に言ってたし。あたしが逆の立場なら助けたのにダメ出ししてくるヒロインとかごめんだし。

 でもこのどこにも行けない感情をどこにぶつけていいかわかんなくて。好きでもない人にキスされるのを平気なフリするのもいい加減辛くって。


「もっ、もうやだっ、黙って帰ったりしないでよ遅れてから来たくせにぃいい」

「えー…めっちゃぴえんじゃん…おれにどうしろと」

「こっこういうとき普通少女漫画じゃ消毒チューとかするんだよ」

「なにそれアルコール塗るの?」

「ちがうっ! 好きでもない人にそんなんされたんだから硯くんだってあたしにそんくらいしてくれたってんぅっ」


 突如視界が塞がれて、下からすくい上げられるようなキスをされる。あたしが階段にいて硯くんが下にいたからそうなるのは必定で、思わず両手を胸の前に挙げたあたしだったけど程なくしてちゅ、と音を立てて硯くんの柔らかな唇が離れた。


「おやすみ、鳴」







 なにが正しくてなにが間違っているのか、大人じゃないあたしたちにはわからない。

 でもとりあえず言えることとして


 硯くんとしたはじめてのキスはなんかちょっと血の味がした。


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