約束 ~幼馴染みの甘い執愛~
5章 Side:愛梨

嘘つきのキス


 作業が一区切りしたので顔を上げると、目の前のデスクの前田(まえだ)先輩と目が合った。先輩が何もないはずの空間を視線で示して『後ろ』と呟く。

 えっ? と思って振り返ると、そこには雪哉が立っていた。にこやかな笑顔で。

「!?」
「忙しい? 借りてた資料返しに来たんだけど」

 驚きの声が出る直前、目の前にクリアファイルが差し出された。視線を下げると、数日前に雪哉に渡した製品仕様書の束が収められている事に気付く。

「あっ、はい、いいですよ。後で戻しておきますから…!」

 咄嗟に口から丁寧語が飛び出る。これまでの経験から、雪哉に畏まった態度で接すれば不機嫌になるかもしれない事は容易に想像できた。

 だがあっという間に会社中の噂の的になった美男子の通訳が普段関わりがないはずの愛梨を訪ねて来た事で、やけに注目されてしまった。所属する市場調査課のメンバーの視線をまるごと攫ったこの状況では、砕けた態度で接することなど出来る訳がない。

「あとこれ、主成分が一緒で香りが違うタイプのもある?」
「えっ……えっと。あります、けど」
「それも借りていい?」

 前回は遅い時間に急ぎの要件だったようなので請け負ったが、今は勤務時間中なんだからプロジェクトメンバーとやり取りして完結して欲しい。

 けれど借りたものを借りた人に返すのは当然で、そのついでに別のものを、と言われてしまうと流れが自然すぎて断りにくい。

「少々お待ちいただけますか? 総務に確認いたしますので……」

 雪哉の反応を確認する直前に、逃げるように電話機に手を伸ばす。
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