イチゴ 野イチゴ
第二章
 第二章


 
 自分の子どもをそう感じる親がいるのかどうか、わたしは時折我が子が違う存在になったように感じることがあった。

 藤原美似菜、瞳の良く動くふっくらとした赤ちゃんだった。

 そう感じ始めたのは、幼稚園に通い始めた頃だっただろうか。子ども部屋にかけられた大きな鏡に向かって長い髪をとかしている時の事だ。

「ママ、ミイナは青いリボンでいいよ。ピンクのリボンはミクが使いたいみたいだから」
 美似菜の口からその名を聞く事はその時が初めてだったし、自分もその名を口にしたことがなかったから、聞き返してしまった。
「ミクってだれ?お友だち?」

 黒い瞳を輝かせて愛くるしい表情で見上げて笑う。
「ミクはミクだよ。やだな、ママったら」
 黒く長い髪を左右に分けて青いリボンで結びながら、何も言えないまま唇をかんだ。

「いってきま~す」
 幼稚園の教室の中に消えてゆく青いリボンを揺らしてゆく姿が、いつもと何も変わらない事を確かめるように、大きく息を吸い込んで吐いた。

 何日かしてからの事、幼稚園の先生がわたしに聞いた。
「藤原さんのお宅にはお子さんはもう一人いらっしゃるのですか?」
 何のことを言っているのか、はじめのうちは理解できずに怪訝そうな表情になっていただろうか。

「ミイナちゃん、妹がいるとお友だちに話していたものですから」
 震える手を抑えきれずに聞いた。
「名前言ってましたか?」
 優しそうな先生はわたしの様子に気付いたようで不思議そうな顔で答えた。
「ええ、ミクちゃん、って」

 それからそんなことは何度となく、あった。

 親戚の結婚式に参列する為に、出かけた子供服専門店では
「ママ、あたし青いドレスにするね、ピンクのドレスはミクが着たいって言ってるから」
 わたしはその度、聞いても聞かないふりをするのが常になってしまった。

 夫はそんな話を鼻で笑い飛ばして
「子どもってものは想像力すごいもんだなぁ!ミイナの中に妹がいるのかな、姉妹がいる友だちをみてきっと羨ましく思っているんだろうね」
「でも、名前が」
 いい淀むわたしの顔を覗き込みながら、何の心配もないという風に肩を抱く。

「きっと、どこかから耳に入ったのかもしれないじゃないか。おじいちゃんとかおばあちゃんとか。子どものいう事だ、気にしてたら身体が持たないよ。きみだってこれから、仕事復帰するんだから、小さなことに悩んでたってしかたないさ。ミイナは活発で自分の意見もきちんと言える素直な子だよ」

 わたしは自分がデザインする宝石の店の経営ができるようになったばかりの時妊娠し出産した。
 共同経営者の友だちの好意で子どもが幼稚園にはいって落ち着くまで仕事半分子育て半分でという約束もしていた。復帰する予定が迫っていた。

 何年も任せていたスタッフに変わって、再度営業もしなくてはならないし、顧客管理も久しぶりにたくさん回らないといけない。

 なにより落ち込んだ経営をたて直さなければならない。
 気持ちは焦り、少しずつ仕事に行く時間も増えていた。

 自分の店を構える事の難しさは身をもって感じていたし、子育て中心に協力してくれていた仲間たちになんとか楽をさせてあげてもっとたくさんのお客様に足を運んでもらえる店にしなくてはならない、そう不安が膨れ上がっていた。
 わたしの胸に意欲が湧きあがって来るのを止められなかった。
 気持ちは前向きだったし、その覚悟も自信もあった。


 本格的に仕事が始まると幼稚園の送り迎えは自分の実家の母に来てもらわなくてはならないし、休んでいた時にたまった雑用もたくさんあって、帰る時間はまちまちだった。
 自分の時間を管理するだけで毎日が過ぎて行った。

 それこそ、美似菜の話を聞いてあげる時間さえ少なくなっていったし、夫も時期を同じく役職が変わって忙しさで夫婦の会話さえなくなっていった。

 家に帰っても寝るだけの日々が過ぎて、ふと眠っている美似菜の可愛い顔を見てハッとした。

 忙しさの中でろくに顔を見ない日々の中、それでも我が子は成長していた。

 どんどんおしゃまになっていく美似菜、会話さえ数えるほどの日が続く中で、可愛い今しかないこの時をもう少し大事にしなくては後悔するだろうと思った。
 夫に話すと同じように感じているとわかった。そして、二人で話し合って決めた。
 大事な記念日には、どんな大切な仕事さえ置いておいて、夜眠るまでたっぷりの時間を作ろう。
 そして、たくさんためてあった話したい事や悩みやそんな話を時間が許す限りするのだ。
 誕生日、結婚記念日、それくらいしかなかったけれどそれくらいがちょうど良かった。

 美似菜の大好きなケーキを買ってきて大好きなチキンを買ってきて、作るまではいかなかったけれどみんな笑顔になって、その日を楽しみに待つことができた。

 少しリッチにスペイン料理屋さんやイタ飯屋さんにも行った。生活にメリハリができたし、ご褒美のようで日々を頑張る事ができたので、本当にいいアイデアだと話していた。

 そうやってうまく日常が過ぎて行って、経営もなんとか軌道に乗り我が子の成長さえ、心地よく感じられる日々が過ぎて行こうとしていた。
 美似菜は、中学生になっていた。


 その名前を聞く事はなかったし、忘れていた、本当に。

 その日そろそろ誕生日の計画は決まったかな、とメールを気にしていてわたしはパソコンの電源を落とした時、ベルが鳴った。
 会社の電話が鳴るのは日常の事なのに、なぜかその時肩を震わせるほど驚いたのを覚えている。

 駆け付けた病院のベッドには、身体中に白い包帯を巻かれて横たわる美似菜がいた。
 バイクの事故でバランスを崩したトラックの荷台が美似菜の上に崩れ落ちて来たという事だった。

 下半身にダメージが大きくて、意識は取り戻しつつあるという事だった。
 頬に擦り傷が痛々しい。
「ママ、ごめんね。ミイナイライラしてたんだ」
 気がつくとわたしの顔を見て、美似菜はうるんだ瞳でそう言った。

「何言ってるの、大丈夫よ、すぐに良くなるからね」
 わたしが笑った顔を見ると美似菜は疲れたような表情を作り
「家にミクが一人で待っているの。連絡してあげてね、心配してると思う」

 そう小さな声でわたしに告げて安心したように瞳を閉じて寝息をたてた。

 美似菜の手は擦り傷で痛々しかったけれど、その手を握りしめながら自分の手が震えて止まらないのをどうにもできなかった。

 「大丈夫ですよ。鎮静剤も聞いているのでしょう、少しずつ元気になっていきますよ、若いんですから」
 看護師さんがそういいながら、わたしの震える手を握ってくれた。

 そう、命に別状はないという事だったし、様子をみて足の骨がどの程度のダメージがあるのか判断した上で手術しましょうという事だった。

 万が一、膝から下を失う事も視野に入れて下さい、と言われた。

 夫が慌てた表情で、病室に入ってきたのでとりあえず、わたしは美似菜の着替えやら入院に必要な物を取りに家に帰る事にした。

 膝から下を失う、という言葉ともう一つの言葉が渦を巻いて、振り払っても振り払っても頭の中で波のように押し寄せてくる。
 何か関係がある気がしている。
 ミク、未来。
 どうして家に一人で待っているなんて言った?
 何度か美似菜が口にして、問い詰めずに来た名前だ。

 けれど、こんな事故にあって、どこかその名前が関係しているに違いないと予感した。
 着替えを取りに行く、そうじゃない、わたしはこの疑問を解決しなくちゃいけないに違いない、そうしなくては美似菜の身体はもとのまま帰ってこないのではないか。
 そう思えて仕方なかった。朝から続いている痛みが頭の片隅で大きくなった。
 だけど、どうしたらいいのだろう。小さな頃、その名前を聞いた場面を思い起こしてじっと目をつぶった。
 あの時も、あの朝も。

 自宅のマンションに着くと、わたしはドアを開けると、まっすぐに子ども部屋に入っていく。
 勉強机が窓に面して置いてある。
 いつも一人で寝ているベッドには水色のベッドカバー。反対側に全面がオープンになるクローゼット。
 そして正面に、金色に装飾を施した枠にかすかに夕陽が映っている鏡がある。
 わたしはその鏡の前に立った。
「ミク、そこにいるの?ミク」
 その名前を呼んだのは、十五年も前の事だ。

 鏡はわたしの立っている姿を映していて、何も起こらない。
「ああ、ばかねわたしったら。そんなことがあるはずないじゃないの。そうね、早く美似菜の着替えと必要な物を持って行かなくちゃね」
 慌てて、クローゼットを開けて、パジャマやTシャツを鞄につめて、キッチンに向かった。

 不安と一緒に時折頭痛が起こる。
 気がついた時に何か食べるものがあった方がいいかしら、と思ってキッチンに入る。
 冷蔵庫からローストチキンをタッパーにつめて、美似菜が好きな煮物を取り出して、二つ目のタッパーに詰めると鞄に入れた。

 その時、奇妙な音がした。
 パチンと風船が割れるような大きな音、子ども部屋から。嫌な予感ではち切れそうな胸の動悸を押し殺して息を吐き出す。
 何も起こらない事を祈りながら、そう信じて部屋のドアを開ける。

 そこに美似菜が立っていた。
 ドアを開けたわたしを振り返って、驚いた顔をした少女は美似菜ではなかった。
「だれ?」
 瞬きせずにじっとその顔を見つめてささやくように言葉にする。
 少女はまっすぐにわたしの方に向き直ると言った。

「さすがだね、ママはミイナと間違わないんだ。未来だよ、ママ」
 ミク、未来、ミク。
 そんなことはありえない、そんな。

「いま、ミクの名前呼んでくれたね」
 ほくろの位置が違う、微妙に目じりの形も。

 未来は嬉しそうにほほ笑んで、手を伸ばした。
「今日は誕生日なんだよ、ママ」
 誕生日、そうだ誕生日だ。

「ミイナ、事故にあっちゃったね。走れなくなっちゃうかな?」
 ほほ笑んだまま、未来はわたしの手を取った。
 走る事が大好きだと言っていた美似菜。
 走れない?どうして?

 握られた手の温もりが暖かい事に気づくと、背中がゾクっとして震えた。
「来て!」
 そう言うと未来は、わたしの手を力強く引いた。
 その懐かしいようなぬくもりにハッとして正面を向くと、灰色の鏡が目の前に迫っていて目を閉じた。
 何かを通り抜ける。生ぬるく気持ちの悪いそこを通り抜けると身体は解放される。

 目の前が歪んだと思う間もなく、歩いてきた人影にぶつかりそうになりあわてた。足元にはアスファルト。

 雑踏の中に放り出されて、目の前に突然現れた足早に歩く人たちにぶつからないようによけて、立ち止まった。

 ここは渋谷?スクランブル交差点?
 力強くミクがわたしの手を握りながら先を歩き始める。目の前からそれぞれの想いでどこか違う物を見ながら歩く人たちが、思い思いの目的地目指して進んでゆく。
 その人込みをよけながら、未来はわたしの手を離すことなくスクランブル交差点を泳いでゆく。

「未来、これからデートなんだよ」
 振り返った表情は、美似菜が嬉しそうな表情とうり二つでどきりと胸が熱くなる。
「ママは、こっそり後ろをつけてきてよ。どんな男の子か判断して欲しいな」
 屈託なく笑う未来は可愛くて、胸が締め付けられる。

 わたしの手を離すと、カフェに入ってゆく未来。言われるまま後を追う。
 おしゃれなカフェは、ランチ時なのか、人がざわめき思い思いの話で空間を埋めている。
「待った~?ごめんね、目の前で事故見ちゃったんだ。こわかった」
 奥の席、雑音から少し遮断された場所に男の子が座っていた。
 背の高い、端正な顔立ちの男の子で、どこかで出会った事があったかな、と思わせる。
「事故って、大丈夫だったの?ミクは」
 怪訝そうな表情を作って、優しそうに未来の顔を下から見上げる。

 誰だっただろう。見覚えがある気がしたが思い出せないまま。
「うん、たぶん。救急車が来てたけど、大丈夫だと思う。二人とも。あ、二人ともかはわからないな」
 美似菜よりも少し幼い表情にみえる少女は、男の子の事が大好きだという顔になっている。
 わたしは近くの空いた席に座って、コーヒーを頼む。
「ここのステーキランチ、抜群なんだよ」
 未来はそういうと男の子の分もオーダーした。店内には肉の焼ける香ばしい匂いが鼻をくすぐって食欲をそそる。
 「どうなの?部活走れてる?」
 二人は他愛のない会話を楽しんでいて、ここがどこなのかわたしは何をしているのか、わからなくなり頼んだコーヒーを飲みながら店内を見回してみた。

「ミク!」
 ふいに店の入り口から声がしたと思ったら、そのまま素早い動きで未来と男の子の席へつかつかと歩み寄る女の子。
 震えながら伸ばしてしまいそうな手を、なんとかコーヒーカップの元へ押しやった。
 その女の子が、さっき病院のベッドで傷だらけになって眠っていた美似菜だったから。
「いい加減にしてよ!あたしは忙しいんだから」
 そう言いながら椅子に座って男の子に挨拶をする。
「ミイナです。ミクの彼氏ってあなた?ごめんなさい、あたしあまり時間ないんだ」
 注文を取りに来たウェイターに、頭を下げた。

「優馬くん、小さい頃田舎で遊んだ事もあるよ。覚えてないの?それから、近所に越して来たけど遊んでたことは覚えてるよね」
 未来が寄り添うように男の子の隣に座り直し首をかしげてみせる。

「ああ、なんとなく記憶の片隅にあるかも。とりあえず、今日は急ぐのでまた」
 そっけない素振りで美似菜は店を出て行こうとして、こちらに歩いてくる。
 少し勝気で行動力はある、だけど優しい面もある子だ。

 わたしの横を通り過ぎてゆくその時、人影がわたしの隣の席に腰かけるのを感じた。
「ママ、落ち着いて聞いてね」
 その声に震えながら隣の人影を見る。

 通り過ぎてゆく美似菜、そして隣の席に座っている美似菜。美似菜は二人いる。目元にあるほくろ、歩き方、どちらも美似菜に違いない。
 そうして、歩いて店から出た美似菜は早足で通りを越えて人ごみの中に消えてゆく。
「ミイナ、なの?わたしが見えるの?」
 隣に座った美似菜の顔を、まっすぐに見つめて問いかけると、にっこりと笑った。
「うん、あたしね、思い出したんだ、いろんなことを。それでね、ママを連れ戻しに来た」
 連れ戻す?ここはどこなのだろう、わたしはいったいどこにいるというのだろう?
「連れ戻す?あなた今病院にいるんじゃないの?」
 わたしの問いにギュッと力の入った表情になって
「そう、ここは別の場所だよ。ミクが作った世界」
 そう言って立ち上がるとわたしの手を握った。
 目の前の光景が薄くなってゆく。カフェの椅子もステーキのいい匂いも薄くぼやけてくる。

「早く、行かなくちゃ!」
 そう言って、走ろうとしていた美似菜は。急に足を止めて唇をかんだ。
 目の前に立っていたのは未来で、さっきまで嬉しそうに男の子と話をしていた表情とは全く違ってきつい目をして、わたしたちをにらんでいる。

「どいて!」
 美似菜がわたしの手を握りながらその横を通り過ぎようとすると、身体を寄せた。
「どうして?あたしのママでもあるんだよ。ミイナいつでも独り占めして!いつでもいつでも、あたしはそれを羨ましく見ているだけだった」

 未来の表情が緩んで泣きそうになる。そして、ひとこと、わたしに向かってつぶやいた。
「どうかな、あの男の子、かっこいいでしょ?わたしに似合うかな?」
にっこり笑って再び、美似菜を見てわたしの顔をみつめる。

「そういう運命にしちゃったのは、ママだよね。ママが決めたんだよね」
 胸に飛び込んで来たその言葉は、わたしの中にある何かを強くつかんで握りつぶそうとした。

「ごめんなさい」
 その言葉しか、絞り出せないまま力なく椅子にもたれた。

 こんな日が訪れようとは、思わなかったし想像していなかったけれど、紛れもなく自分のせいだという言葉に否定できないままでいた。

「そんな事、しらないよ!!!」
 美似菜が大声をあげて、未来を突き飛ばした。

 あたりは暗くなり、何かのカプセルの中に押しやられて、どんどん世界が縮まっていくような感覚のまま、動けずにいた。まるでブラックホールの中にいるようだ。
 このまま、小さくなってゆく世界につぶされてしまうのではないか。
 未来の顔も美似菜の表情も、どちらも選ぶ事などできないのに。

 
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