イチゴ 野イチゴ

  3

 鏡は金色に縁どられて明るく輝いた。

 近づくと、向こう側にミイナと同じ顔が映る。でもそれは、ミイナではない。

「どうしたの?そんなに怖い顔」
 ミクは鏡の中から可愛らしく笑った。

「ママはどこにいるの?ママを返してよ!」
「何のこと?ママは病院のベッドに眠っていたでしょう?」
「知ってる、気づいてる。ミクがママをそっちの世界に連れて行ったって事」

「また、何言ってるの?ママは病院のベッドの中で幸せそうに眠っていたでしょう?どうやってそっちとかこっちとか、帰したり連れて行ったりできるっているのかな?」

「思い出したんだよ。とっても小さい頃、ミクはいなかった。ミクはいつでも鏡の中に映る自分だったよね。だけど、田舎に帰った時おばあちゃんの家の三面鏡の中から遊びに行きたいって言ってきたよね」

「そんな事、思い出したからってどうなるって言うの?楽しそうに遊んでいたあたしの知らない世界で、ミイナだけが嬉しそうで羨ましかったんだから、それくらいの事どうってことないでしょ!」

「それは、いい。だけど、あたしの世界でママがいなくなるのだけは許さない。返して!」
「何言ってるのかな?こっちの世界がどんなところなのか知らないからそんな事、言うんだよ!」

「知ってるよ、優馬くんとそっちに行ったもの。見て来たよ、ミクが楽しそうな世界。あたしの足がない世界」
「知ってる?何を知ってるっていうの?」
 そう言うと、向こう側の女の子はにっこり笑った。

「帰さないよ、だってママが自分でこっちにいるって言ったんだから!」
 キュッと結んだ口元は、意思が現れているようでミイナは唇をかんだ。
「どうしても、帰ってきてもらうから!」

 そう言うとミクが映っている冷たい鏡の表面に手のひらを当てた。

「そんなに簡単にこっちの世界へ来られると思ってるの?こっちの世界はミイナがいる世界とは違うんだよ。あの時、あたしは田舎の世界にあこがれた。ミイナだって一人が嫌であたしが現れるのを願った。だからあたしはそっちの世界へ行くことができたんだよ」

 ミイナは思い出していた。おばあちゃんの家に夏休み中いることになったあの日、ママは一緒にいる時間さえ惜しいように、仕事があるからと言って忙しい毎日の中に戻って行った。

 おばあちゃんもおじいちゃんも、そんなミイナに気遣って近所の子どもたちが遊ぶ川に連れて行こうとした。だけど、心の中で怒りと不安の入り混じった感情が膨れ上がって、悲しくておばあちゃんの三面鏡に向かって、ふくれっ面のまま何時間も座り続けた。

 向こう側で、ミクが言った。
『あたしがそっちに行くから、寂しくなんかないよ』

 鏡に手のひらを当てると、向こう側でミクも手を当てる。そうすると、冷たかった鏡は次第に温かみを感じられるようになって、あっと声をあげると中からミクがこちら側に転がり落ちた。

 二人になると心細さはどこにもなくて、おばあちゃんの教えてもらった川に向かって走っていた。

 田舎の子どもたちは、都会から来た双子の女の子に羨望の眼差しを向ける。
 人気者になった二人は思い切り夏休みを遊び楽しみ、それから何度訪れても人気者というポジションは変わりなかった。


 ミイナは鏡に手を当て続けたが、向こう側のミクはじっとこちらを眺めながら、手をかざそうとはしない。呆れたような表情で口元に笑みが浮かぶ。

 不意に横から影が現れると、ミイナの置いた手のひらの影に合わせるように手を伸ばした。
「あ」
 それは、一回り大きな暖かい記憶のある手のひら、優馬の手だ。
「優馬くん?」
 鏡の向こう側の景色が変わって、小さい頃遊んだ神社の境内が映る。

 池のそばにある水を張った大きな瓶。その中を覗き込む幼いミイナ、と水面に映る影。
 ミイナは思い出していた。ガキ大将だった優馬たちお兄さんやお姉さんと遊ぶ時、いつでもミイナはミソッカスだった。走るのは同じに早く走れるのにみんな、子ども扱いをする。

 水瓶の中を覗き込みながら、とてもいいアイデェアだと思った。

 水面にさざ波がたたないように手のひらをそっとかざすと、向こう側からミクが嬉しそうにこちらの様子をうかがっているのがわかった。

 待ってましたとばかりに向こう側からミクが現れて、一緒に遊び始める。同じ顔でも同じ容姿でも、ミクは走るのが遅くてどんくさい。ミソッカスはミクの定位置になり、ミイナは安心して遊びに興じる毎日が訪れた。

 ああ、そんな事があったんだ。子どもながらにひどい事をしたと感じるし、自分の事ばかり考えていたなとも思う、ミクは何も感じないんだと思っていたなんて。
 そう思うとミイナの胸はギュッと締め付けられる。

 ミクを非難する資格なんかあるの?
 自分にそう問いかける。

「しっかりしろよ!取り戻すんじゃないのか?子どもなんか誰だって残酷だ!」
 優馬の声が聞こえると、鏡に当てた手のひらに温もりが感じられた。
 あっと気付くと、目の前に優馬が立っていた。

「やっと来たな」
 優馬はにっこり笑い、ミイナの手を取ってたちあがらせる。

「さあ、探しに行かなくちゃ!時間はあまり無いようだ」
 自分の部屋なのに何かが違っている。繋がっているはずの鏡は、金色の装飾もなくただの丸い鏡だし、部屋に飾ってある小学校で表彰された運動会の絵も鏡の横に置いてあるお気に入りの熊のぬいぐるみも何もない。殺風景な部屋の中には、向こう側から見えるところだけは同じに物が配置されている。

 見回してもミクの姿はなかった。
「どうしよう、どこに行けばいい?」
 優馬はミイナの手を握った。その手は暖かく優しく頼もしかった。

「よく考えて。どうすればいいのか」
 うっすらと夕闇が迫っている自分の部屋は、西日が入って紅色に塗り替わろうとしている。
 ミイナはスッと立ち上がり、優馬の手を握り返して胸を張った。
「一緒に来てくれるよね」
 優馬は頷いて顔をあげた。

 ミイナは走った、家から裏の神社を抜けて街路樹の並ぶ道路を優馬と一緒に走った。
 時折、気になるのは自分の左足だった。病院から走って帰って来る間、痛みと違和感があったけれど今は輪郭がぼやけているだけで、痛みも違和感も感じられない。

 息が切れて胸が熱い、大きく息を吐き出しながら立ち止まった目の前に見えていたのは病院だった。
 ミイナが運ばれて入院していた病院ではなく、もっと大きな建物でミイナは初めて見る建物だった。
「ここは?」
 優馬が不思議な顔をして建物を見上げる。

「きっと、ママはここにいると思う」
 優馬がもう一度訪ねる。
「ミイナが入院していた集中治療室にママはいたんじゃないの?」
 どうやら優馬はミイナに起きたことは全部わかっているようで、少し頼もしく安心できる気がする。

「うん、あそこにはいないと思ったの。ママがいるとしたらきっとここ、あたしが生まれたこの病院なんじゃないかと思って」
 理解していない顔になって優馬は尋ねる。

「なんで?ママがここにいる?」
 ママはミイナが生まれた病院の話をするのを極度に嫌っていた。
 小さい頃、ミイナは自分が生まれた場所について聞いたことがある。小学校の宿題で自分のルーツを発表する授業があったのだ。

 病院名を口にすると、
『ママはあそこには行きたくないの。思い出したくないの。お願いだからこれ以上聞かないで頂戴ね』
 そう言った。その時の顔、表情、眼差し、幼心に母親の苦しみや悲しみを見た気がして、ずっと忘れられずにいた。

 何かがあった。それは確信で、ママに何かの想いがあるのではないかと心の奥底でくすぶっていた不安の種。

 真っ直ぐにその病院を自分の中のベクトルが指し示していた。
 だから、ミイナは家から近いけれど行ったことのないこの大きな病院に向かったのだ。
「だけど」
 ミイナは立ち止まって息を吐き出した。
「ここから先はわからない」
 優馬は傍らに立って考えているようだ。
「ここでミイナは生まれた」
 ミイナが頷く。

 その時、大きな稲妻音がして暗い夜空を鮮やかな電光が二つに切り裂いた。
「なんで、こんなところに来たって言うの?こんなところに何があるって言うの?」
 ミクが目の前に立っていた。

 髪を風になびかせ、ぎらついた瞳を二人に向けて真っ直ぐに射抜く様に睨みつけている。
「優馬くんはあたしにくれるんじゃなかったの?」
 瞳がうるんでいる。
「ママは、自分であたしのそばにいるって言ったんだよ」
 唇が青ざめて震え出している。

「それは、間違ってる」
 優馬が叫んだ。
「ミク、誰だって寂しいさ、そして一人でいたくない。だけどその為にその人の幸せを奪うというのなら、何かがまちがっているんだよ」
 優馬の言葉にミクがかぶりを振る。

「ちがわない、ちがわない!ミイナが望んだことじゃない、わたしはミイナがいい子でいる為にミイナが愛される為にそっちにいたんだよね。だけど、こっちの世界は反対だよ。ミイナはわたしの為にいるんだ。そして、ママだってわたしの為に生きてるんだ。何にもちがわないよ」

 胸に差し込む痛み、ミイナが愛されるためにミクはいた。
 物分かりのいいお姉さんを演じていたのはミイナだったのか。
 自分で問いかけながら、身体中が痺れていく。
「まって!」
 傍らで、優馬がミイナの肩を掴んで顔を覗き込む。

「しっかりして!ママを取り戻すんだろ?」
 そうだ、何があってもママを取り戻そうと心に決めてこっちの世界に、ミクのいる世界に飛び込んだはず。

 ミクの言葉は真実を語っているのかもしれないが、だけどそれとこれとは別問題なんだ。
 自分の不安になる気持ちに、何度も念押しをしてつぶやいた。
「ミク、ミクがあたしを恨むのはいいよ。だけど、ママがいるべきところはここじゃない!だから、ママを解放して!お願い」

 急にミクの姿が地に飲み込まれるように崩れて、そこからイバラのつるがスルスルと伸びてくる。
 それは、行く手を阻むように建物に通じる道を遮り背の高さまで伸びて固まる。
「こっちだ」

 優馬がミイナの手を引っ張ると遮られた道と逆方向に走り出した。
 建物の高い塀越しに走ってゆくと、車の出入りできる空間が現れる。駐車場の入り口のようだ。

 そこから、建物の救急の入り口が緑のライトと赤いライトが光っているのを見て取れる。
 車は辺りに見えない。そのまま二人走って、救急の出入り口に着く。ドアに立つと自動扉は電気音とともに開いてゆく。
「ここから、どこに行けばいい?」

 ミイナは優馬の先に立って建物に入ってゆく。どこに行けばいいのかどこにママがいるのか、不思議とわかっている気がしていた。
 エレベーターに乗り静かに微かな電気音とともに上ってゆき、二人は三階で降りゆっくり辺りをみまわす。

 不意に廊下の床を植物のつるが這い出していっぱいになる。濃い緑色の葉は床を覆いつくしてカサカサと音を立ててミイナと優馬の足元に迫ってくる。
「こんなところに来てどうしようっていうの?」

 ミクの声が聞こえたと思うと、植物でできた緑の壁の真ん中に立って冷たい表情を作っている。ミクの身体から植物のつるが這い出して空間を埋め尽くそうとしている。
「ママがここにいると思ったから来たの。正解でしょ?」
 ミイナが足元のつるを踏みつぶして答える。

 どんなことがあっても、もう戻らない。ママを連れて帰るまでは。
「何度も言うけど、ママがここにいるのはママ自身の意志なんだよ!ママはここにいたいんだって。お願いだから帰ってよ!」

「帰らないよ!ミク、ママの人生を奪わないで!ミクがどう思うっているかわからないけど、ママは二人の事愛してるじゃない。ママに抱きしめられて感じたでしょ?ミクの事も大事に思っているんだよ」
 ミクが唇をかむ。

 ミクの身体が、カサカサと音を立てて緑の生い茂る中に崩れていく。勢いのあった緑の植物は急にしおれて動かなくなる。

薄暗い中ミイナが先に立って歩いてゆく。足元のさっきまでの一杯の緑は茶色に変わりつつある。病棟への廊下が真っ直ぐに続いている。
 右手に大きなガラス窓の部屋が見える。まっすぐに迷うことなくミイナはドアに手をかけた。
「ここ」
 優馬がミイナの顔を覗き込むと、口元が微かにほほ笑んだようにも見える。

「あたしが生まれた場所だと思う。新生児室なんだと思うな。来たことは無いけど、生まれてからは二度目って事だよね」
 そのドアを開けるとピンク色のソファがあり、いくつかの椅子もおいてある。その向こう側にガラスの壁に隔てられた中に小さなベビーベッドのようなものがいくつも並んでいる。
「あ」
 その部屋の隅にベビーベッドを覗き込む人影がある。
「ママ?」
 その人はベッドの傍らで椅子に腰かけ、中を覗き込んだまま何も耳に届かないようで身じろぎもしない。
「ママ!」
 更に大きな声をあげると、後ろから
「邪魔しないで!」
 振り向くとミクの顔がそこにあって、瞳はうるんでいる。頬に涙の流れた跡もある。
「声は聞こえないよ、ママは思い出の中で動こうとしないよ。だから諦めて自分の世界に帰りなよ。お願いだよ、帰って!」
 もう一度、声をあげてみる。

「ママ、一緒に帰ろう!」
 声は聞こえない。動こうとしない。
 ミイナの目から涙が溢れだした。
 このままじゃ、いやだ。ママを連れ戻しに来たのに、声は届かない。
 ミイナはドアを開け新生児室の中に入り、ベビーベッドをよけながら部屋の隅に走り寄る。

 その姿をみて隣に立っているミクに顔を向けると、優馬が小さな声で
「ミク、生きてる人は本当の場所に、本来いるべきところに返してあげようよ。代わりにぼくが一緒にいてあげるからさ」
 つぶやくように言う。

「本当に?優馬くん一緒にいてくれるの?」
 その言葉と一緒に何かが変わった。

 それが何なのか、空間の色なのか空気なのかわからなかったが、隅にあるベビーベッドの側にいたママが突然はっとしてこちらを振り向いた。
 目に一杯の涙をためて、どれだけ泣いたのかと思われるくらい腫れた瞼のままで。
 近寄っていたミイナを見ると、少しだけ頷いた仕草をすると部屋の外に出てそこに立っているミクの方に歩み寄る。

「あなたの事を忘れていたわけじゃないのよ、わたしの可愛い娘だもの。辛い想いをさせたのはわたしのせいなのかもしれないわね。だけど、人を恨むのはもうやめましょう。こんなに愛しいと思っているわ」
 ドアから出るとママの身体中から柔らかい乳白色の空気が漂い目の前に立つミクの身体を、大きく両手を広げて柔らかく大切な物を包み込むように抱きしめた。
「ママ?」
 色のついた空気にまあるくカプセルのように包み込まれたミクは、さっきまでの表情が溶けて流れてゆく。

 ミクは鏡の向こうで一緒にほほ笑んでいた少女に戻ってゆくのだとそうミイナは感じると、自分がたっている側にあるベビーベッドに視線を落とした。

 自分が悲鳴を上げているのに驚きながら、意識が遠ざかってゆく。
「イヤァーーー!」
 知りたくない。悲しい事、身を切るように辛い。自分の悲鳴が長く耳のどこかで響いている。
 切り裂くような悲鳴が自分の声となって聞こえてくる。
 いやだいやだ。誰か助けて。

 ミイナは、目の前が暗くなってゆく中で手を伸ばして誰かを掴もうとした。
 その手は何度も何度も空を掴み、それでも何かを掴んで安心できることを望んで手を伸ばし続けた。

 誰か、誰か助けて。

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