赤鬼と黒い蝶
「光秀殿は比叡山焼き討ちで武功を上げられ、御殿様より近江国の滋賀群(約5万石)を与えられたそうにございますよ。流石でございますな」

「多恵は物知りであるな」

「はい。地獄耳でございますゆえ」

 光秀の出世を我がことのように自慢し、喜ぶ多恵。あたしは多恵のように、光秀の出世を喜ぶことが出来なかった。

 その不安を煽るように、光秀は坂本城を居城とし、天正元年には信長の直臣となった。

 あたしは信長の所行に一喜一憂しながらも、光秀を直臣にしたことに関しては強く反対した。

 ――これにはきっと裏がある。

 信長はまだ帰蝶と光秀のことを許してはいないのだ。

 表面的には主君に忠実な直臣たち。
 だが、この乱世。暴君な振る舞いをする信長に、水面下で天下を我が手に納めようと画策する者がいても不思議ではない。

 木下藤吉郎秀吉(きのしたとうきちろうひでよし)(のちの豊臣秀吉(とよとみひでよし))は、信長に忠誠を誓い、信長や家臣に『猿』と呼ばれヘラヘラしているが、心の奥底ではメラメラと燃え上がるほどの野望を抱いていた。

 帰蝶は光秀が信長の直臣となったことを知っても、顔色を変えなかった。

 帰蝶がもしも姉であるならば、成績優秀な美濃のことだ、本能寺の変も、謀反を起こした首謀者も、そしてその首謀者がどうなったのかも、全て知っているはず。

 それなのに平常心でいられるのは、やはり他人のそら似に過ぎないのだろうか。

「紅、どうしたのだ。顔色がすぐれぬぞ。体の具合でも悪いのか?働き過ぎなのだ。無理をするでない」

「これは、奇妙丸様。紅は無敵でございますよ。病も紅を恐れ近付けませぬ」

「それならよいが。母上様も紅も息災でいてくれねば。心配でならぬ」

「はい。心配ご無用。それより、奇妙丸様こそ、お体を大切にして下され」

「紅は男であるが、まるで母のようじゃ」

「これ、俺は男だ。武士に対して母とは何事だ。愚弄しておるのか!」

「はははっ、怒る気力があるならよい」

 織田信長嫡男奇妙丸は、心優しい武士に成長していた。本能寺の変のあと奇妙丸はどうなったのだろう。もっと歴史の勉強をしておけばよかった。

 戦国の世、きっと無事ではすまなかったはず……。

「この紅が、命に代えても奇妙丸様をお守り致します」

「頼りにしておるぞ」

 我が子同様に慈しみ育てた奇妙丸を、死なせてはならない。

 ――1572年(元亀3年)
 “奇妙丸は元服し、勘九郎信重(かんくろうのぶしげ)を名乗り、のちに信忠(のぶただ)と名を改めた。”
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