赤鬼と黒い蝶
 『さく』とは、あたしではなく元恋人……。

 どうして……
 そんなに苦しそうな顔をしているの。

 どうして……
 そんなに辛そうな顔をしているの。

 彼女の身代わりでもいい。
 信也の苦悩を、あたしが取り除いてあげる。

 あたしは自分から、信也を求めた。

「……もっと……強く抱いて」

 あたしの心が壊れてもいい。
 これで信也の心が救われるなら。

 あたしを抱きしめたまま、信也の動きは止まった。夜の闇に包まれともに果て、信也はあたしの胸に倒れ込む。

 あたしは信也を両手で抱きしめる。
 強いと思っていた男の弱さを見せつけられ、抱き締めることしかできなかった。

 信也はうっすらと目を見開き、あたしの顔を見た。自分が抱いた女が元恋人ではなかったと気づき、信也は少し悲しそうな目であたしを見つめ、あたしの右肩にある小さな黒子(ほくろ)に優しいキスを落とした。

「信也……お願いがあるの。暫く泊めて欲しいの」

「本当に帰らないつもりか?」

「あんな家、二度と帰りたくないんだ」

「学校はどうすんだよ」

「学校も行かない。仕事探して自立する。信也みたいに住み込みの仕事探すよ」

「紗紅、シャワー浴びて服を着ろ。アパートまで送るよ」

 信也はあたしを突き放すようにベッドに座り、煙草をくわえた。

 『彼女の身代わりでもいい』なんて、嘘っぱちだ。

 『心が壊れてもいい』なんて、嘘っぱちだ。

 ――本当は……
 あたしだけを見て欲しかった。
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