溺愛音感


母も父も、お互いを愛していなかったわけではない。
ただ、同じ場所では生きていけなかっただけ。

父は、家庭より自分のキャリアを優先させた母のことをけっして悪く言わなかったし、離婚もしようとしなかった。

それが不思議で、一度だけ、どうして正式に離婚をしないのかと訊いたことがある。

その時、父はとても優しい顔で「そんなかわいそうなことはできない」と言った。


『音羽さんは絶対言わないだろうけれどね、ハナや父さんに負い目を感じているんだよ。彼女が僕たちに堂々と関われる権利を取り上げてしまうのは、かわいそうだ』


母は、自分がわたしたちを捨てたという自覚は十分あったのだろう。
わたしと父の生活に踏み込んで来ることはなかった。

しかし、父が病に倒れた時、父が亡くなった時、わたしがヴァイオリンを弾けなくなった時――助けが必要な時には必ず手を差し伸べてくれた。

それは、いつでもわたしたちのことを気にかけていた証拠であり、不器用な愛情の示し方だったのだと思う。

母に最期を看取られた父は、『次の結婚相手には、甲斐性のある男を選ぶんだよ』と笑っていたし、母も『そうするわ』と笑いながら答えていた。

けれど、真新しい父のお墓の前で呟いた『結婚は一度で十分よ』が、彼女の本音だと思う。


関係を築くのも壊すのも、当人同士しかできないことだ。
他人がいくら手を加えたとしても、最終的な決定権は二人にあるのだから。

続けるのも、終わりにするのも。

わたしとマキくんの関係をどうするかも、わたしたち以外の誰にも決められない。


(わたしは……どうしたいんだろう?)


もしも――実現する可能性は限りなく低いと思うけれど――もしも結婚したならば、一歩あの部屋を出た途端、わたしとマキくんの間には誰の目にも見える高い壁がそびえ立つ。

生まれ育った環境、学歴、社会的地位。
彼のいる「あちら側」では、いまさらどうすることもできない「ちがい」が常につきまとう。

一度経験しているからといって、乗り越えられるなんて思えない。
再び、押しつぶされてしまうかもしれない。

むしろ、何度経験しても、自分には乗り越えられないかもしれないという不安と諦めは、大きくなる一方だ。


「ハナ?」


怪訝そうに見下ろす瞳に映るのは、安住の地を求めてさまよう野良犬。

ヒトを警戒し、威嚇しながらも、優しくされたら尻尾を振ってしまう、野良になりきれない野良犬。

割り切った付き合いができるほど、大人じゃなくて。
かといって、真正面から向き合う勇気もなくて。

それでも、居心地のいい場所から離れられずにいる。


「マキくん……」


落ち込みたくない。
散歩中は楽しむことだけを考えようと決め、気になるのぼりを指さした。


「何だ?」

「……あれ、食べたい」

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