溺愛音感
「……もういいかしら?」
花梨さんと目を合わせ、頷く。
お財布を出そうとする中村さんを制した花梨さんは、彼女の目の前に名刺を滑らせた。
「知り合いの会社なのだけれど、有能な秘書が結婚退職するので後任を探しているの。興味があれば、連絡してみるといいわ」
「せっかくですが……」
即座に断ろうとする中村さんに、花梨さんがぴしゃりと言い放つ。
「目の前にあるチャンスをみすみす逃すのは、やめなさい。あなたがちゃんと次の職を見つけられなかったら、何のために柾さんが依願退職で済ませたかわからないじゃないの」
「…………」
「安心して。『KOKONOE』とも西園寺とも、まったく関連のない会社だから」
「……ありがとう、ございます」
絞り出すようにして呟き、名刺を鞄へしまい込んだ中村さんは、指先で涙を拭って立ち上がった。
軽く会釈をして立ち去ろうとする彼女に、どうしてそんなことを言おうと思ったのか、自分でもわからない。
でも、言わなくてはいけないと思った。
「あの! わたし、マキくんがわたしと生きていくのが幸せだって思えるように頑張ります。それに、わたし、絶対にマキくんをひとりにしません。長生きします」
中村さんの表情は、「バカじゃないの」と言いたげだったが、ふっとその口元が緩んだ。
「それから……瑠夏さんとの約束も、絶対に果たします」
「約束……?」
怪訝な表情をする彼女に、頷く。
「いつか必ず、日本で、『KOKONOEホール』で、彼女が好きだった曲を演奏してみせます」
「そう……期待しているわ」
強張った頬が微笑みに緩むことはなかった。
それでも、ぽつりと呟かれた言葉は、嘘やお世辞ではなかったと思う。
その証拠に、暗かった瞳に、一瞬、明るい光が差したから。
マキくんへの想いが拗れ、いろんな感情がねじ曲がってしまった彼女の心の奥には、きっといまでも瑠夏さんとの友情が、確かに残っているはずだから……。