溺愛音感
「あなた……」
自分があの記事を書かせ、わたしをホテルに呼び出したと認め、開き直った彼女に、花梨さんが溜息を吐く。
中村さんは、怯むどころか溜め込んでいたものを吐き出すように、一気にまくし立てた。
「社長の隣に、あなたのような人は似合わないわ。瑠夏とは大ちがいよ。あの人の隣には、完璧な人が似合うの。ヴァイオリンしか取り柄のない……それすらも、満足に弾けないあなたなんかが傍にいるなんて、おかしいわ」
彼女の言葉は、わたしの弱いところにグサグサと突き刺さる。
けれど、その痛みに負けて、諦めるなんてあり得ない。
マキくんの気持ちを少しもわかっていない彼女の言葉を認めるなんて、できなかった。
「そう、かもしれないけれど……マキくんは完璧な人に傍にいてほしいなんて思っていない。自分を理解して、支えてくれる人……自分が心から愛せる人に傍にいてほしいと思ってるはずだよ」
「わかったようなことをっ……」
「わたしがマキくんの隣に相応しくないなら、誰が相応しいの? 瑠夏さん? でも、彼女はもうこの世にはいない。それに……中村さんは、誰も認めたくないんだと思う。だって……あなた自身がマキくんのことを好きで、彼の傍にいたいと思っているから。そうじゃないの?」
中村さんが、ハッとしたように目を見開いた。
震える唇を噛みしめ、顔を背ける。
反論できないのは、図星だから。
たぶん、マキくんは彼女自身が気づかず、見ないふりをしようとしていた彼女の好意に気づいていたと思う。
けれど、彼女の能力を認めていたから、秘書であり続けることを求めた。
その代わり、一切、期待させることのないよう振る舞っていた。
彼女の恋心を利用しないために。
「マキくんが……秘書として中村さんを必要としていたのは、瑠夏さんの親友だったからじゃない。中村さんの仕事を認めていたから。ちゃんと、中村さんのことを見ていたからだよ。社内恋愛はしないと決めていても、正直に気持ちを打ち明けられたなら、マキくんはちゃんと向き合ってくれたと思うよ。だから……こんなことになって……すごく残念に思って、落ち込んでいると思う」
リスクを考え、先回りして手を打つのが当たり前だと思っている人だから。
彼女がこんなことを引き起こしてしまう前に、止められなかったことを後悔しているにちがいないのだ。
「中村さんは、わたしを傷つけたくて、あんなことしたのかもしれないけれど、一番傷ついたのはマキくんだよ。何年も一緒に働いてきて、信頼していた秘書に裏切られたんだから」
「…………」
「だから……わたしじゃなく、マキくんに謝ってほしい。上辺だけじゃなくて、心から」
引き結んだ彼女の唇が、解かれることはなかった。
ただ、背けたままの横顔、頬を流れ落ちていく涙が見えた。
「ハナさんは、お人よしね? わたしなら、彼女を訴えるわよ」
黙って話を聞いていた花梨さんは、相変わらず容赦ないことを言う。
「そんなの面倒だし、効果ないのわかってるから」
「寛大ね」
「寛大じゃない。マキくんに、中村さんを辞めさせないでとは言わないから」
いまの彼女にとって、マキくんの傍にいるのは辛いだけだ。
やり直すなら、新しい場所がいい。
今度こそ、自分の気持ちを偽らずに済む人との出会いがあれば、いい。