溺愛音感
時計の針を巻き戻すように記憶を遡り、そこから再び現在まで。
長い時間がかかったようで、ほんの数分間のことだった。
「ハナ!」
名を呼ばれ、我に返った。
「えっ……あ、」
「ぼーっとしないの。降りるんでしょう?」
「う、うん」
音羽さんに手を引かれ、慌ててエレベーターを降り、目を瞬く。
「あら。結構、お客様がいるじゃないの。んー、コーヒーのいい香りがするわねぇ」
エントランスには、大きめのソファーが六個、個性的でおしゃれなひとり掛けの椅子が十脚程度用意されていた。
ソファーは、この秋発売予定の高級路線の新商品。
ひとり掛けの椅子は、今後『KOKONOE』が共同制作や期間限定の契約を考えている海外アーティスト作のもの。気に入ったら、この場で予約購入することも可能らしい。
出入り口近くには人気のカフェ『TSUBAKI』ののぼりを立てた即席コーヒースタンドもあり、くつろぎながら、演奏を楽しんでもらえる趣向になっている。
観客は、オフィス街の住人がほとんどで、年配の貫禄あるスーツ姿の男性から、ビジネスカジュアル姿の若い女性まで、年齢層は幅広い。
友人同士でソファーにぎゅっと身を寄せ合ったり、ひとり掛けの椅子でくつろいだり。
コンビニのおにぎりを食べている人がいたり、コーヒー片手に立ち見していたりと、楽しみ方はひとそれぞれだ。
いま、演奏しているのは、プログラムの最後の曲。
チャイコフスキーの弦楽六重奏曲、「Souvenir de Florence フィレンツェの思い出 第四楽章」。
これから仕事へ戻る人たちの眠気を吹き飛ばす、軽快な演奏。
若々しい勢いがありながらも、雑なところはない。
(さすが美湖ちゃん。息ぴったり)
妥協を許さない、美湖ちゃんの厳しい指導の賜物と思われる。
満足そうに聴き入っている美湖ちゃんの姿に頬を緩めて視線をさまよわせ、窓際に佇む人を見つけた。
ネイビーはマキくん、チャコールグレーのスーツ姿は雪柳さん。
二人の横には、麻らしき藍色の和服姿の松太郎さんもいる。
ランチタイムで仕事モードはお休み中なのか、マキくんはシルバーフレームの眼鏡は胸ポケットに納め、目を細めてヨシヤたちの演奏に見入っていた。
(よかった……仕事、抜けられたんだ)
演奏が終わり、曲の説明をしたり、芸術祭の宣伝をしたりしながら軽妙なトークで間を持たせていた美湖ちゃんと目が合った。