溺愛音感
「プログラムのおしまいに、おまけがあります。来年、わたしたちのオケとの共演を快諾してくださった、特別ゲストの演奏です!」
彼女の声を合図に音羽さんを促そうとして振り返り、唖然とする。
「お、音羽さんっ!?」
「あら、やだ。もう出番なの? せっかく買ったのにぃ……」
なんと、これから演奏すべきピアニストは、いつの間にかコーヒーを啜っていた。
コーヒースタンドで買ったのだろうが、ショートではなく、トールサイズだ。
(弾く気あるの……音羽さん……)
自分を中心に世界が回っていると考えるのは、女帝らしいと言えばらしいが、仮にも有名ピアニスト。マイペースぶりは舞台裏で披露してほしかった。
「ごめんね、美湖ちゃん……こんなんで……」
聴衆の視線が突き刺さるのを感じながら、音羽さんの手から取り上げたコーヒーカップを美湖ちゃんに手渡す。
「いいえ、とんでもないですぅ! ね、ハナさん。柾さん、来てくれてますよ? 作戦実行できますね? ふふふ……」
彼女に脇腹を突かれて、身をよじる。
「う、うん」
「頑張ってください!」
「ありがと」
急遽、わたしと音羽さんの演奏をねじ込んでもらったため、本物のグランドピアノを運び込むわけにはいかず、電子ピアノを用意してもらった。
演奏するのは、二曲。
一曲目は音羽さんの独奏で、誰もが知っているショパンの「ノクターン第二番 変ホ長調 」。
聴衆たちは、突然の超有名ピアニストの登場にざわめいていたが、優雅な一礼をした彼女が椅子に座るなり、静まり返る。
音量やらペダルの感覚やらを確かめた音羽さんは、ほんのり口元を綻ばせ、弾き始めた。
わたしの記憶にあるピアノを弾く彼女は、いつでも嬉しそうだ。
女帝と呼ばれる傲慢さなど微塵も感じられない。
ピアノを心から愛し、弾くことを楽しんでいた。
それがいかに難しいことか、思うようにヴァイオリンが弾けない経験をしたいまは、よくわかる。
どんな精神状態でも、その時できる最高の演奏をするのがプロだ。
もし、それができないならば、弾くべきではない。
そういう意味で、わたしがヴァイオリンを弾けずにいたのは、当然なのだ。
(それにしても……上手いなぁ)
繊細でありながらも感傷的になりすぎない、抑制が聞いたショパンは耳に心地よく、爽やかな気分になる。
こんな演奏を聴かされたら、どんなワガママだって許してしまいたくなる。