ずっと一緒に 〜後輩男子の奮闘記〜


 その日1時間ほど残業をして帰ろうとしたら、入り口の横に、ついさっき帰ったはずの本田さんが立っていた。
 空を見上げている。
 雨はそれほど強くはないものの、傘が無ければ確実に濡れてしまうくらいには降っていた。
 傘が無いんだろうか。中村さんのを借りるって言ってたのに。

 気配に気付いたのか、本田さんがこっちを見る。
「あれ須藤君、お疲れ様」
「どうしたんですか、こんなとこで」
「傘無くて。どうしようかなって思ってた」
 ははは、と本田さんは笑う。
「中村さんに借りるって言ってませんでしたか?」
「うん、そうだったんだけど、美里ちゃん置き傘持って帰ったの忘れてたんだって。自分が濡れる!って言ってたけど、そうはいかないでしょ。私は買うからいいよって言って先に帰したの」
 なんと、ビルの1階に入っているコンビニの傘は売り切れだったんだそうだ。
 ついてないの、と本田さんは苦笑する。
「……どうぞ」
「え?」
「傘、入ってください。あの……嫌でなければ」
「え、嫌なんてそんなことないよ」
「……良ければ、家まで送ります」
「それはいくらなんでも悪いよ。駅まででいいよ。降りてからは近いし」
「とりあえず行きましょう」
 ビルを出て、傘を広げる。
 右側を空けて振り返ると、本田さんがすすっと入ってきた。
「よろしくお願いします」
 俺を見上げて、笑う。
 こんなに距離が近いことはあまりないから、そのせいかちょっと緊張する。
 俺は無言で頷いて、歩き出した。

「梅雨なのに傘を忘れるなんて有り得ないなあって、ちょっと落ち込んじゃった」
「今朝は晴れてましたからね」
「洗濯物干してこなくて良かったよ」
「僕もです」

 なんでもない、たわいもない話。
 やっぱり本田さんの声は心地良くて。
 雨の音と混ざって、素直に耳に入ってくる。
 このままずっと聞いていたい。



 ……なんだ『ずっと』って。



「信号だよ」
 傘を持った腕が引っ張られる。
 引っ張ったのは本田さん。
 前を見ると、信号は赤で、車が走っていた。
「どうしたの、ぼーっとして」
「あ、はい、すいません」
「須藤君でも、そんなことあるんだね」
 本田さんが笑顔で言う。
「いつも冷静でしっかりしてるから、道路でぼーっと歩くなんてしないかと思った」
「なんですかそのイメージ。ぼうっとする時くらいありますよ」
「あはは、そっか。でも危ないから信号は気をつけないと」
 信号が青になって歩き出す。
 駅に着くと、本田さんがハンドタオルを出した。
「やっぱりなー」
 俺の左側に回る。
「私濡れないなって思ってたんだ」
 そう言って、俺の左腕を拭き始めた。
「いいですよ本田さん。すぐ乾きますから」
 本田さんがいた右側に傘を傾けていたから、俺の左腕は濡れていた。
 身長差があるから、傾けないと傘の意味がないくらい本田さんが濡れてしまうのだ。
「冷えちゃうからね」
 本田さんは、俺の腕とカバンを拭いた。
「ありがとうございます」
 俺がそう言うと、本田さんはにこっと笑った。
「こちらこそ、ありがとう」
 ハンドタオルをカバンにしまう。
「須藤君、紳士だね」
「え……?」
「傘を私に傾けてくれるし、歩くスピードも合わせてくれてたでしょ?」
「ああ……」
 一緒に歩く人がいれば、合わせるのは当然のこと。
「気を遣ってくれて、ありがとね」
 本田さんは、無邪気に笑う。
「女の子と一緒に歩くスキルはバッチリだね」
「えっ?」
「もしかして慣れてるとか?」
 冗談ぽく、本田さんは言う。
「そんなこと、ある訳ないです」
「あははそう?須藤君モテるのに」
 本田さんは笑いながらそう言って、改札を通った。
 なんだか、いろいろ誤解されてる気がして、俺はきっぱり言った。
「モテたことはないですよ」
「またまた〜、まだいろんなお誘いは断ってるの?」
「最近は誘われなくなりました」
「ああ、ずっと断ってるからか。でも親しい人とは飲みに行くようになったよね。井上君とか、西谷君とか」
「そうですね」
 ホームに着いて、列に並ぶ。人が多い。
「最初はさ、ちょっと心配したんだ」
「なにをですか?」
「須藤君、無口だし、パッと見て無表情なことが多いし、黙々と仕事してるし、もしかして仕事楽しくないのかなって思ってたの」
 電車が来て、乗り込んだ。
 混んでいて、自然と距離が近くなる。
 また緊張してしまう。
「だから、辞めちゃうんじゃないかと思ってね」
「えっ?」
「今までも結構いたからね、すぐ辞めちゃう人。でも、須藤君は違うなってわかったよ」
 本田さんが、すぐそばで、俺を見上げてにこっと笑う。
「無表情じゃなくて、わかりにくいだけなんだよね。ちゃんと見てると、今楽しいんだな、とか、イラッとしてるな、とか、疲れたみたい、とかわかるんだよ。あ、他の人はわかんないみたいだけど」
「え……」
「私はやっぱり隣の席だから、見てる回数多いからね。漂ってくるオーラも感じられるし」
「オーラって……あ、でもそれは僕もわかるかもしれません」
「もしかして私の?」
「はい。集中してる時と、集中が切れた時はわかりやすいです」
「うわあ恥ずかしい、なにそれ。私そんなん出してるんだ」
「出てますよ、ばっちりと」
 やだなあ、と本田さんが両手で頬を押さえた時だった。
 電車が急ブレーキをかけた。

 体がぐんっと引っ張られる。
 元々つり革につかまっていたから、それを頼りに倒れないように踏ん張った。
 つかまるつり革が無かった本田さんが、周りにも押されて、俺の正面に倒れ込んできた。
 空いている手で、それ以上倒れないように支える。
 ぎゅっ、と本田さんの手が、支えた俺の腕をつかんだ。

 顔のすぐ下で、本田さんの髪がふわっと揺れた。
 甘い匂いがする。
 思ったよりやわらかい体の感触に驚く。

「ごめん、思いっきり寄っかかっちゃった」
 密着したまま、本田さんが動こうとする。
 そうすると、甘い匂いがまた鼻をくすぐる。
 心臓が、大きく早く、動き出す。
「痛くなかった?」
「……大丈夫です……」
 間近で見上げられる。意図しない上目遣い。
 心臓が大きく波打って、止まるかと思った。



 ……なんだ、これ。



「はあ、びっくりした」
 周りの人達も体勢を立て直して、少し空間に余裕ができる。
 本田さんも自分の力で立って、密着した体を離す。
 つかまっていた俺の腕からも、手を離した。
 その手を追いかけるように、俺の手が勝手に動く。
 動いた手が目に入って、初めて自分の手だとわかった。
 慌てて引っ込める。
 幸い、本田さんは気付いていないようだった。
 停止信号が出たので急ブレーキをかけたというアナウンスが流れた。
「ごめんね、ありがとう」
 離れたとはいえ、至近距離にいる本田さんが、また俺を見上げて笑う。
「なんか、今日は助けられてばっかりだね」
「いえ……特になにかした訳では……」
 俺は慌てて目をそらした。

 どうしたんだ、さっきからなんからおかしい。
 本田さんが動く度にドキドキする。
 本田さんが笑う度に顔が熱くなる。

 落ち着け。
 今日はいつもよりも距離が近いから緊張してるだけだ。
 さっきの急ブレーキで驚いたせいで、その緊張は余計に増したのかもしれない。

 電車が静かに動き出す。
 俺は、本田さんに気付かれないように、頭を振った。
 まばたきを数回して、ゆっくり息を吐いて、吸う。
 深呼吸の時に、最初に吐くのはばあちゃん直伝だ。

 よし、落ち着いた。

「電車、動きましたね」
 話しかけると、本田さんは変わらず笑顔で答える。
「そうだね。もう次なのに、着かないかと思ったよ」
 そうだった。本田さんの降りる駅は次だ。
 外を見ると、雨は変わらず降っているようだった。

 電車がホームに入る。
「今日はありがとう。お礼は後でするからね。じゃあまた明日」
 そう言って本田さんは降りていく。
 予想通りの行動だ。きっとそうすると思ってた。
 だから、俺は無言で本田さんに続いて電車を降りた。
「ちょっと須藤君」
 気付いた本田さんはギョッとしている。
「まだ雨降ってますから」
「大丈夫だよ、近いし」
 知ってる。この前送って行ったけど、本当に近くて徒歩5分くらいだった。
「でも濡れるし」
 ちょっと強引だと思うけど、本田さんよりも前を歩いて改札に向かう。
「須藤君、あの、ほんと大丈夫だから」
 言いながら、本田さんが追いかけてくる。
 改札を抜けて、道路に出るところで傘を広げた。
 振り返ると、本田さんと目が合う。
 また落ち着かなくなりそうだったので、前を向いた。
「ほんとに……いいの?」
 後ろから声が聞こえてくる。
「行きますよ」
 俺がそう言うと、本田さんはゆっくりと、空けていた右側に入ってきた。
「……お願いします」
 ちょっとだけ頭を下げて、俺を見上げて笑う。

 その笑顔に、ドクン、と大きく胸が鳴った。

 歩き出さない俺の顔を、本田さんが覗き込む。
「須藤君?大丈夫?」
 心配そうに見ている。

 ……可愛いと、思ってしまった。

「なんか、ついてる?」
 本田さんが勘違いしたらしく、鏡を取り出す。
 俺が、じっと見ていたからだ。
「すいません、なんでもないです。行きましょう」
 本田さんが鏡をしまうのを待って歩き出す。

 歩き出すと、またたわいもない話が始まる。
 それは、凄く心地良かった。
 ずっとずっと、続いてほしいくらいに。


< 16 / 130 >

この作品をシェア

pagetop