ふと、消えるように
「綾人っ!」

 大声に驚いて、周囲にいた人々が駆け寄った。何事だ、と問う初老の男性に、私は必死で説明する。

「彼が! 綾人が落ちたんです!」
「崖から!?」
「私を撮るんだって、後ろに下がっていって……」

 男は鉄鎖を(また)ぎ越え、懸命に崖下に首を伸ばしたが、靄が滞留していて海面は見通せないと言う。
 へたり込んだ私の傍らで、彼は警察へ連絡してくれた。すぐに助けが来るそうだ。

 写真映えのために落ちたのかよ、と右手から呆れた呟きが出る。
 不謹慎な感想に、連れの女性が肘鉄を食らわせていた。

 十分も経たずにパトカーが到着し、私から順に聴取される。
 綾人が写真を撮ろうとした経緯を話したところ、彼の服装や持ち物を尋ねられた。

「赤いジャケットにジーンズ……。手荷物はありません」
「少しここで待っていてください。捜索中です」

 どうやら海にも警察艇が来ているらしく、人が溺れていないかを捜していた。
 最初は物珍しげに捜査を見守っていた野次馬も、やがてポツポツと崖から去る。
 他のみんなが帰ってしまおうが、私は地面に座ったまま朗報を待った。

 太陽は少しずつ高さを増して、冷えた朝をほぐしていく。
 しかし、私の体は固いままだ。嫌な緊張が身を縛り、汗でうなじを濡らす。
 一時間ほど経過して、女性警官が私の肩に手を置いた。

「捜索は続いていますが、まだ発見できません」
「落ちたんです……。ふっと、消えるみたいに」
「転落時の様子は、皆さんも証言してくださいました。ここでは体力を消耗するので、一度宿に戻られては?」
「でも……」

 愚図る私を、警官が根気よく説得する。
 結局その忠告を受け入れ、私は旅館で待機することにした。

 波に(さら)われてしまうと、沖まで一気に流れて行くこともあるらしい。
 まだ助かる可能性は十分にあるのだから、悪い方向に考え過ぎるなと念を押された。

 警官に車で送ってもらえたので、旅館にはすぐに着く。
 部屋で上着を脱ぎ、崩れるように座布団へ腰を下ろした。
 綾人は助かるだろうか――。

 疲れ切った私を、早く癒してほしい。

「わがまま言っちゃダメか」

 恋人の方がよほど疲れているはずだもの。
 未明から重労働をこなし、綾人と同じ色のジャケットで城を往復したのだから。
 何度も確かめた。綾人(・・)は助からない。

 人の証言なんて適当なもんさ――そう笑う(りょう)を思い返して、やっと私も頬を緩める。
 リバーシブルのジャケットを裏返した恋人が、明日には迎えに来てくれることだろう。
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