婚約破棄するはずが、一夜を共にしたら御曹司の求愛が始まりました
 この部屋でくつろいでいた彼の姿を思い出すと、胸がぎゅっと締めつけられるように痛んで、涙がこぼれそうになった。けれど、涙だけは必死にこらえた。

「私には……泣く資格もない」

 泣く資格を得るためには、せめてもう少し努力しなくては。

 紅はむくりと起き上がった。とりあえずしわくちゃな服を着替えて、メイクもきちんと落とそう。温かいお茶を淹れて、今後のことを考えよう。

 ドレッサーに座りメイク落としシートを手にしたところで、紅のスマホが鳴った。相手は玲子だった。あの喧嘩以来、一度も連絡は取っていなかった。

「もしもし」
『私、謝る気はないからねっ』

 玲子はいきなり喧嘩腰だ。

「いきなり、なによ」
『紅が大事だから、幸せになって欲しいもん。逃げて手に入るものなんて、なにもない。そんなの人生の無駄遣いよ』

 今は玲子の言いたいことがよくわかる気がした。このまま逃げていたら、ささやかな幸福すら手に入れることはできないだろう。
 宗介に思いを残したまま、他の誰かと恋愛や結婚なんてできるはずもない。

「うん……ほんとにそうだね」

 人の一生は有限だ。しかも、明日、突然に終わりがくるかも知れないような儚いものだ。そのことは、紅が誰よりよくわかっているはずなのに。
 無駄にできる時間なんて、きっと一秒もない。
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