婚約破棄するはずが、一夜を共にしたら御曹司の求愛が始まりました
「今夜ひと晩だけは俺の恋人になってよ。婚約破棄の慰謝料としては、妥当なところじゃない?」

 誘うように彼は笑う。その笑顔は妖しいまでに美しかった。

 彼の言葉の意味を理解できないほど、紅は子供ではない。戸惑いがなかったと言えば、嘘になるが……紅はこくりと頷いた。
 儀式だと思った。お別れの儀式。案外、それを必要としているのは彼ではなく紅のほうかも知れない。

(今夜ひと晩だけ。それで、おしまい……)

「わかった。最後の思い出ってことなら」
「さぁ。それは……どうかな?」

 元々予約してあったのか、すぐに手配したのか。それはわからなかったが、VIP専用のエスカレーターが止まった先はスイートルーム階だった。
 高級ホテルのスイートルームだ。部屋も、調度品も夜景も、きっと素晴らしいものなのだろう。

 だが、紅がそれらを楽しむ余裕は与えられなかった。

 部屋に入るなり、宗介は紅の唇を奪った。初めてのキスだった。にもかかわらず、彼は熱く、深く、どこまでも紅を追いつめた。

「はぁ……宗くん……待っ」
「お兄ちゃんじゃなくて、男として見てよ。それでもダメだって言うなら、その時は開放してやる」

 彼の大きな手が、紅の白い肌を撫で回す。甘い唇は首筋から胸元へと下っていく。獣のようにしなやかに動く彼が、あっという間に紅の理性を奪っていく。

 麻薬には抗い難い快楽がともなうと聞く。甘美なそれに溺れて、いつの間にか依存し、それなしでは生きられなくなる。
 彼のキスもまるで麻薬だった。熱に浮かされたように感覚だけが過敏になって、なにも考えられなくなる。
 
 一度きりと断ち切れるのか。紅はほんの少し不安を覚えた。だが、その不安すら宗介の麻薬で打ち消されてしまう。

「紅、こっち。ちゃんと俺を見てて」

 少しかすれた彼の声に、背中がぞくりと震えた。そのわずかな反応を宗介は決して見逃さない。
 さらに深く、執拗に、紅を攻め立てる。

「宗くんっ」

 彼の中に溶けていく。その快楽だけに紅は身を委ねた。

 初めてのキス、初めての夜。これまで見たことのなかった彼の顔、触れ合う肌の温もりと求められる悦び。
 今夜初めて知ったすべてを、紅は胸の奥底にしまいこんで鍵をかけた。……鍵はどこか遠くへ捨ててしまおう。決して手の届かない遠いところへ。







 













 

 







 
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