婚約破棄するはずが、一夜を共にしたら御曹司の求愛が始まりました
「自由になって、紅はなにかしたいことがあるの?」
「うん……あの事件から後は、ずっと大変だったから……ひとなみの普通の女の子として暮らしたい。やっとそれが叶いそうなの」

 宮松の倒産後、心労がたたった父が急死。紅がまだ高校三年生のときだった。
 血のつながらない継母とは折合いが悪く、頼れる人は宗介だけだった。その彼からの援助と成績優秀者だけがもらえる給付型奨学金で、なんとか大学を卒業した。
 堅実で安定していることから公務員を志望し、M市の市役所に就職した。ようやく仕事にも慣れてきたし、こうして宗介への借金も返済することができた。

 これからは、普通の女の子らしい楽しみを見つけたい。

「友達と旅行したり、習い事したり、合コンとか……恋愛も、してみたい」

 その言葉を聞いた宗介がふいに紅の肩を抱き寄せた。鼻先が触れ合うような距離で彼がささやく。

「……その相手は俺じゃダメなの?」
「宗くんは頼りになるお兄ちゃんみたいな存在で……」
「うーん、お兄ちゃんかぁ。紅があんまりかわいいから、大事にしすぎたかな」

 宗介は苦笑まじりのため息を漏らす。

「紅」

 紅という名は父がつけた。(あか)は強く、美しく、父がいっとう好きな色だった。文字通り、強く美しい女性であれという父の願いがこめられた名前だった。
 艶のある声で、彼がその名を呼ぶ。

「いいよ。紅が望むなら、婚約を破棄しても。その代わり……」

 優しい笑顔に隠された彼の強い眼差し。人当たりがよく誰に対しても紳士な彼が、ただ優しいだけの男ではないことを紅は知っている。
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