君といた夏を忘れない〜冷徹専務の溺愛〜

 緊張しながら、役員室をノックし、「どうぞ」という声を聞いてドアを開ける。

「失礼します」

 役員室には専務の秘書、中川秘書課長はおらず、専務一人だった。帰国早々仕事をしているようで、大量の書類がデスクに積まれている。専務は椅子に座り、その書類を眺めていた。その姿でさえ絵になるくらい美しい。

「コーヒーをお持ちしました」
「……ありがとう」

 一礼して退出しようとしたところで、「2年ぶりだな」と声を掛けられた。先程も向けられた、射抜くような瞳。心臓がバクバクと音を立て始める。記憶がないことを知られてしまったら、……クビだろうか。
 少なくとも配置移動はあるだろう。秘書は記憶がものをいう仕事だ。役員の仕事の仕方や癖だけでなく、取引先の好物や贔屓の店。会社同士のお付き合い上、顔と名前を覚えればよいというものではないのだ。

(どうしよう!少し雑談する気分なのかしら。変なことを言ってしまったら!)

 内心慌てていると、「元気にしてたか?」と続いた。

「えっ!」

 気遣う台詞ではあるが、全く労いの気持ちを感じない。鋭い目が私を試しているようだ。何と答えれば良いか分からない。

「俺には言いたくない、か?」

 専務は顔をしかめて苦し気な表情をしている。どう答えるのが正解か考えて一拍遅くなってしまった。それを瞬時に察知されてしまったようだ。

「いえ! そういうわけでは! あの……私生活で色々とありまして、なかなか大変でした」
「へぇ。私生活で。……新しい彼氏、とか?」

 なんだか更に不機嫌! 冷や汗が出てくる! な、なんで彼氏の話?
 いつのまにか、専務は立ち上がってこちらへと歩いて来ている。どうしてそんなに威嚇してくるの!?

「れっ恋愛なんて! とても出来る状態ではありませんでしたから」

 気付くと、目の前に専務が立っている。真剣な目で私を見つめ、どこか苦しそうだ。

「日本にいたい理由は、なんだ?」
「?」
「男ではないなら何だ? 何故あの時、俺のところに来なかった? 何ヶ月経っても音沙汰もなく、何故そんなに他人行儀なんだ」
「あの……?」

 話の内容がさっぱり分からない。
私と専務の間に、何かあったの? こんなにも怒らせるようなことをしてしまったの?!

「お前にとって、もう終わったということか?」
「ごめんなさい、お話がよく……」
「内線をかけた時もそうだ。お前は淡々と対応した。動揺さえしなかった」

 淡々と対応することが、そんなに許されないこと? 専務の声を聞いて、動揺しなければならないほど、何か重大なミスをしたのかしら?!

「何故だ? 俺のことを嫌いになったならそう言えば良いだろう? 突然消えて連絡も取らずフェードアウトなんて、俺はお前にとって一体何だったんだ?」
「え……何……何を……」

「忘れたとは言わせない。──楓」

 名前を呼ばれた瞬間。
専務の身体が近くて、その香りを感じた。

(この匂いを、私は知ってる──)

 その途端、酷い頭痛が始まり、私はそのまま意識を手放した。
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