耽溺愛2-クールな准教授と暮らしていますー
***


あと一時間ほどで明日になろうかとしている深夜になって、怜はやっと帰宅した。
週の半ばだと言うのに、もうすでに週末かと思えるほどの疲労を感じる。

講義の合間を縫って月松酒造のことを根回しをしたり、実験速度を上げてたりしている中、昼間にあの神谷が言ったことが頭の片隅にずっと残っていた。

『本当だったら僕の方が先に彼女に会うはずだったんだ』

彼は美寧と何か関係があるのだろうか。
なぜ彼がそんなことを言い出したのかが気になってしまう。

玄関で靴を脱ぎ、羽織っていたチェスターコートを脱いで腕にかけながら廊下を進む。普段はそのまま自室に着替えに向かうのだが、煌々(こうこう)と灯るリビングダイニングの明かりが気になり、すりガラスの障子を引いた。

「―――っ、」

部屋の奥のソファーに横たわるその姿に、思わず目を見張った。

暖房がついていても寒いのだろう、体を縮めて丸まるような体勢。ゆるい癖のある長い髪はソファーから垂れて毛先が床に着きそうだ。

怜は長い足を悠然と動かし、音を立てないようにそちらに近づく。すぅすぅという安らかな寝息が聞こえてきた。

「ミネ―――」

小さく呼びかけるが、身じろぎする気配すらない。

お腹の上に乗っている、一枚の色紙に気付く。

そこには見慣れた一軒の店。
白い壁、焦げ茶色の木枠のガラスの扉、出窓。
壁の上部に焦げ茶色のホロが垂れ下がり、一番左端に『café La poire』と書かれている。

そう、美寧がアルバイトに通う【カフェ ラプワール】だ

ソファーの前に置かれたローテーブルには、美寧愛用の百色色鉛筆が散らばっていることから、きっとこの絵を描いている最中に力尽きて眠ってしまったのだろう。

「ミネ。……こんなところで眠っては、風邪を引いてしまいますよ……」

肩を軽く叩くが、一向に起きる気配はない。深い眠りのサイクルに入っているようだ。お腹の上の色紙が規則的に上がっては下がる。
安らかな寝顔に、一日の疲れがふっと軽くなる。

「俺はあなたを振り回していますか……?」

『彼女を振り回すな』と神谷に言われた時、今朝の美寧の姿が思い浮かんだ。

真っ赤な顔と潤んだ瞳で自分を見上げる彼女。
今まで誰にもされたことがないであろうことを怜がしたせいで、ひどく困惑していたに違いない。

彼女を振り回している自覚が少なからず怜にはあった。だから、いつもならサラリと流せるはずの神谷の言葉を聞き流せなかった。
そのせいでめったに買うことのないものを買ってしまい、おかげで講義に遅れるはめになってしまった。


「……仕方ありませんね」

美寧の首と膝の下に腕を差し込んだ怜は、彼女の体をふわりと持ち上げた。
細くしなやかな体はとても軽い。そしてひんやりとしている。

居間から廊下に出る。暖房の効いていた居間と違い、板張りの廊下はしんと冷えていた。

廊下を挟んで真向いの部屋の(ふすま)に手を掛けたところで、ふるりと肩を震わせた美寧が怜の胸へ体をすり寄せた。

透き通った白磁の肌は、白を通り越して青く見える。
長い睫毛に縁どられた瞳は、一度かすかに震えたが持ち上がることはない。

怜は襖に伸ばした手を元に戻し、美寧を抱いたまま廊下を奥へと進んで行った。





【第八話 了】 第九話につづく。
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