年下ピアニストの蜜愛エチュード
「この格好でキスするのは難しいな」

 苦笑するアンジェロを見ていると、なぜだか胸がつまって、涙が零れそうになる。

 彼の隣にいるとあたたかくて、心地よくて、とても安心できる。なのに、どうして泣きたくなるのだろう?

 黙っていたら、本気でまずい。涙をこらえるため、千晶は必死に話題を探した。思い浮かんだのは、

「さっき、その……演奏が終わった時、どうして私にありがとうって言ったの?」

 お礼を言われるようなことはしていない。むしろ千晶の方が勝手に励まされたのだ。

「私、別に何も――」

「でも、あそこにいてくれた」

 意外な答えに、千晶は大きく目を見開いた。

「それに心から僕のピアノを楽しんでくれた」

「えっ?」

 小さく身じろぎした順を背負い直し、アンジェロはいたずらっぽくウィンクしてみせた。

「意外とわかるものだよ、演奏しているとね。今夜は千晶がいてくれて、ピアノを聴いてくれたから、すごく助かった」

 初めての会場や、弾き慣れていないピアノだと、うまくペースがつかめない時もあるのだと、アンジェロは打ち明けた。

「そんな時にはお客さんの誰かひとりを選んで、その人に音楽が届くように弾く。そうするととても集中できて、いい演奏ができるんだ。でも――」

 庭園の灯りはそれほど明るくないが、アンジェロの頬は少し赤くなっているように見えた。

「これからはいつも千晶を思い浮かべる。来月からツァーが始まるけど、たとえ世界のどこにいても……君に音楽が届くように弾く」

「アンジェロ」

「ティ・アモ、千晶。君が好きだ……本当に」

 気づいた時には、もう身体が動いていた。千晶は伸びをして、アンジェロの両頬を包み、唇を重ねる。

 彼は年下で、住む世界もまったく違う。それでも今は自分を抑えることができなかった。

(私も、あなたが好き。大好き)

 アンジェロは少し驚いたようだが、すぐに優しく応えてくれた。

 ついばむようにキスを繰り返していると、星が瞬く夜空に浮かんでいるような気がしてくる。千晶の心には、さっき聴いたばかりのノクターンが響き続けていた。
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