桜の下に立つ人
 美空は悠祐に伝えたいことがあるのだ。だけど、美空の気持ちを押し付けるだけにはしたくない。言葉で伝えられないなら……絵なら、伝えられるのだろうか。感じとってもらえるのだろうか。
 桜の下にいた悠祐のもの憂げな表情がまぶたの裏に蘇る。彼のあんな顔をもう見たくはない。
 感情をぶつけるのではなく――羽のような柔らかさで、春の日差しのような温かさで、傷ついた彼の心にそっと届けたい。
 美空はページを綴じるリングの部分を押さえると、絵を傷つけないようにそっとそのページを切り取った。そしてスケッチブックのまっさらなページとそのページを並べてイーゼルに立てる。
 実物を見ることはかなわないから、すでに描いてあるスケッチを参考にする。けれど、全く同じものを描くわけではない。
 美空の中にあるさまざまな想いは、とても漠然としている。言葉では表現できないそれらを、絵に託したい。ただ心のままに、線で、色で、紙の上に(えが)き出そう。
 さっきまでの停滞が嘘のように、美空の手はいきいきと動き始めた。それでも追いつけないくらい、頭の中にはたくさんのイメージが浮かんだ。
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