名前は、まだない・・・・・・
三 そこに山があるから、人は山に登る
人には、時としてあらがうのが困難な欲求が起こる。
それは、ある意味、人の本能と言うべきものなのかもしれない。

よく言われるが、そこに山があるから人は山に登る。
それと、同じような理論なのかもしれない。

そう、人はそこにボタンがあるから押したくなる。
そこに、ひもがあるから引っ張ってみたくなる。

つまらないことだが、この抑えがたい欲求というものは、万人に共通しているものらしい。
理由は、どこの病院に行っても、『救急ボタン』や『具合が悪い時に引いてください』と書いてあるボタンやひもには、そのわきに注意書きとして『緊急時専用です。緊急時以外のご使用はご遠慮ください』と書かれている。

一年365日。うるう年で366日。いったいどれほどの人々がこの本能的な欲求に耐えることができず、ひもを引いてしまったり、ボタンを押してしまったりするのだろうか。

病院に行くたびに、私はこの欲求と戦い続ける。
一度は、トイレの流すボタンと間違え押しそうになり、一度は、同じく流す紐と間違えて引きそうになった。しかし、寸でのところで思いとどまり、引くのを堪えた。

病院側も、少しは配置に心を配ってほしいといつも思う。
設置場所があまりに押しやすく、その押したいという欲求を堪えることは、猛暑日に外回りをして、のどがカラカラでオフィスの自席に戻った時に、机の上にカップによく冷えた麦茶があった時のような感覚だ。そう、飲まずにはいられない。
自分のために置かれているのか、だれかが忘れて行ったのか、そんなことより、クールビズでこの涼しくもないオフィスで唯一の涼ともいえる冷たい麦茶。
足は太陽に熱されたアスファルトのせいで半ばレアステーキのように熱されているから、もう靴も脱ぎ捨て休ませたい。でも、麦茶はフロアーの真反対側まで歩かないと入手できない。そんな危機的状況にあると、一瞬、人は誰かのものでもいいから、冷たい一口を味わいたいという猛烈な欲求にかられる。

トイレの個室に設置された紐やボタンにはそれと同じ威力がある。

必死に堪え、トイレを後にした途端、隣にある男性トイレに看護士の集団が駆け込んでいった。
何事かと思うと、一団はすぐにトイレから出てきた。
「つい引っ張っちゃったんですって」
「紐の設置位置を変えるか?」
「あれ以上高くすると、手が届かなくなる患者さんが出てしまいますし」
聞こえてくる会話からすると、あの欲求に耐えられず紐を引いてしまった人がいるらしい。
そして、トイレから出てきたのは、もう80歳には達しているだろうおじいちゃん。
「いやぁ~、またやっちゃったよ。あの紐、見ると引っ張りたくなるんだよね」
どうやら、常習犯らしい。
そのあと、おじいちゃんは付添のおばあちゃんにこっぴどく怒られていた。

私でさえ、耐えるのが大変な誘惑だ。
齢80を超えた熟練でさえ、つい・・・・・・。

病院にしてみれば、人騒がせな行為であるから、誘惑に負けて押すことを肯定することはできない。しかし、あの抑えるのが困難になる欲求。これはまさに、衝動と言ってもおかしくない。

そこに紐があるから、人は引っ張る。
そこにボタンがあるから、人は押す。
そこに山があるから、人は登るのと、何ら変わりはない。

不幸にも、私は自分自身、健康を害しているだけでなく、家族に病人がいるため、一年中、ほぼ毎月この誘惑と戦っている。

そこで私は理解した。
そこに、りんごがあるからイブは食べてしまったのだ。
この、罪深い行為は、今も毎日のように私たち人間を善と悪の狭間で誘惑し続けているのだと。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と言った人がいる。
そうだ、イブが食べたら、アダムだって食べる。
人間の原罪と呼ばれる行為を引き起こした誘惑は、今も現代の老若男女を誘惑し続けているということだ。
大きな違いは、トイレの個室に設置されている『非常ボタン』を押しても地獄に落ちることも、楽園から追い出されることもない。ただし、病院スタッフの怒りには触れてしまうが。

そんなことを考えながら、先日も私は必死に衝動を抑えて、難をしのいで帰宅した。

トイレという、特別なプライバシーを必要とする空間。
これが中国やロシアならば話は異なる。何しろ、個室はなく、隣通しに座って話をしながら用をたすのだから。

しかし、日本のように個人のプライバシーが守られている国では、緊急時に医療スタッフを呼ぶためのツールは絶対に必要になる。だれか、誘惑の激しい紐やボタン以外のツールを考えてくれる発明家はいないだろうか。

そういうツールが発明されれば、忙しく働く医療関係者が『誤報』で呼び出され、さらなる疲労を追うことなく、日々の務めを全うすることができるようになる。これは、些細なことのようで、実はとても重要なことだと思う。

現在、世界的に新型コロナウィルスCOVID-19が猛威を振るう中、疲弊し続ける医療関係者の皆様に感謝とお礼を申し上げたい。

そして、誘惑に負けて紐を引いてしまったり、ボタンを押してしまう、老若男女をお許し願いたい。

2020年10月
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