今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿と蒼は二人で美術展の会場に入った。高校から招待券が配られていたので無料だった。美術展は清華美術大学付属高校と清華美術大学を卒業したアーティストたちの合同展覧会だった。広大なスペースの会場は比較的空いていて、入場者はまばらだった。

 蒼は安寿と思いがけず二人きりで過ごすことになって、胸が弾んで仕方がなかった。蒼は隣にいる安寿の手を握ろうと思って何回も手を出したが、実行に移せないでいた。どうしても、蒼は三者面談の時に安寿の隣にいた男のことが頭のなかから払拭できなかったからだ。

 蒼の目から見てもあの男はとてつもなくレベルの高い男で、今の自分はあの男の足元にも及ばないと絶望的な無力感を覚えていた。

 安寿はあの男のことを「親戚のひと」だと言っていたが、蒼は安寿のその言葉に不信感を持っていた。あの男と安寿は親戚関係なんかではない。きっと蒼自身が最も恐れている絶対に知りたくない関係なのだと蒼は確信していた。蒼はこぶしを握りしめた。そして、蒼はあの男が安寿の服を脱がせて、安寿をベッドの上で抱きしめている光景を想像した。蒼は心の底から噴き出してくるあの男への憎しみに身をこがした。

 不意に蒼は展示室を移動するために階段を上ろうとした安寿を後ろから抱きしめた。そして、強引に階段の踊り場の壁際に押しつけて、蒼は安寿にキスした。すぐに蒼は唇を離して、目を見開いて硬直している安寿に告白した。

 「安寿、俺は君が好きだ! 高校入試の試験会場で君を初めて見た時からずっと」

 その言葉を聞いて顔をしかめた安寿はとっさに蒼の手を握り、そのまま蒼の手を引いて会場の外に連れ出した。蒼は安寿がとった突然の行動に心底驚いた。蒼は安寿のなすがままに引っぱられていった。

 安寿は庭園のかたすみにあるベンチを見つけて座った。蒼も安寿の隣に座った。そして、安寿は戸惑った蒼の目をまっすぐに見て、はっきりと言いきった。

 「蒼くん、私、結婚しているの」

 「なんだって!」

 真っ青になって蒼は驚愕した。

 「だ、……誰と?」

 気が動転した蒼はすでにわかりきっていることを安寿に尋ねた。

 安寿は無表情で答えた。

 「三者面談の時に、私と一緒にいたひとと」

 おとといから窓が閉まりっぱなしのサロンは熱気がこもって暑苦しい。安寿も航志朗も汗ばんできた。安寿の汗は冷や汗でもあった。安寿の話を聞き終えた航志朗は正直驚いた。

 (「結婚している」って、男友だちに話したのか。それも、突然キスしてきた男に)

 下を向いた安寿はすんでのところで涙を押さえて両目をごしごしとこすった。航志朗は安寿の真正直さに心から感心した。

 (安寿は、本当にピュアなんだな……)

 航志朗は自分を恥じた。航志朗は手を伸ばして安寿の髪を優しくなでながら言った。

 「安寿、本当のことを話してくれてありがとう。突然のことで驚いたよな。大丈夫か」

 安寿は下を向いたままうなずいた。

 航志朗は安寿の手を取って台所に戻った。航志朗はガスを点火してカレールーの箱を開けた。そして、「カレー食べるの、このまえ君がつくってくれた以来だよ。急にお腹が空いてきたな」と笑って言って、沸騰してきた鍋の中身にルーを溶かし始めた。

 安寿は思わず航志朗の左腕に右手で触れた。捻挫をしていた時に航志朗につかまったように。そんな安寿を愛おしそうに見つめた航志朗はガスを止めてから、安寿をそっと抱きしめた。安寿が傷つかないように、柔らかく優しく。しばらくふたりはそのままでいた。なかなかできあがらないカレーが入った鍋の前で、安寿は航志朗の温もりに包まれながら、航志朗に話さなかったその出来事の続きを思い出していた。

 その後、安寿は蒼に今まで航志朗以外には誰にも話したことがなかった自分の家庭の事情を打ち明けた。安寿は誠実で心優しい蒼のことを信頼していた。大切な友人として、安寿は蒼のことが好きだった。もちろん、安寿は莉子と大翔にも同じ気持ちを抱いている。

 それを聞いて、蒼は心の底から驚いた。自分がずっと一方的に好意を寄せていた目の前にいる安寿に、なんてつらい過去があったのだろうと蒼は打ちのめされた。それと同時に、安寿が絶対に他人には話したくはないはずの極めて個人的な事情を自分に打ち明けてくれたことに、蒼は安寿から寄せられた大いなる信頼を感じて涙が出そうになっていた。

 そして、蒼は安寿の本心を聞いてしまった。

 「安寿、君はどうしてあのひとと結婚したんだ? 俺はまだよくわからないけど、結婚ってどんな場合でも、やっぱり本当に好きなひととするものだろ」

 しばらく安寿は沈黙してから、震える声でつぶやいた。

 「私、彼のことが好きなの。いずれ別れなければならないひとだけど、もうどうしようもなく彼が好きなの」

 その安寿の言葉に思わずきつく目を閉じて下を向いた蒼だったが、その瞬間、蒼の存在そのものの奥底からとてつもなく熱い何かが噴き出してきた。ずっと漠然とした将来への虚しさに彷徨っていた蒼の心に火がついた。すぐさま目を見開いた蒼は安寿をまっすぐに見すえて言った。

 「安寿、俺、くやしいよ。ものすごく。今のままじゃ、俺はあのひとに勝てない。でも、いつか絶対に君にふさわしい男になってみせる。いつかきっと……」

 安寿は蒼の哀しみのこもった烈しいまなざしを見つめた。そして、蒼は立ち上がり、安寿の前から走り去って行った。

 蒼は一度も振り返らなかった。じりじりと真夏の太陽から降り注ぐ熱い日射しが、蒼が去った後のアスファルトの道を黒くこがした。

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