今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 雨戸が閉まった真っ暗な客間に、航志朗は車のトランクの中からスーツケースを取り出して運び込んだ。航志朗がサロンのソファに座ると、ピンクの小花柄のエプロンを身につけた安寿が冷たい麦茶を運んできた。安寿は航志朗の前で両膝をついて、「どうぞ」と言った。思わず航志朗は顔を赤らめた。

 (今、俺は安寿と一緒にいる……)

 航志朗が小声でつぶやくように言った。

 「皆、留守なんだな」

 「はい。皆さま、ご旅行に行かれています」

 (この屋敷の中に、二人きり……)と安寿と航志朗は同時に同じことを思った。

 安寿は胸が早鐘を打ち始めて、航志朗の前にいるのが耐えられなくなった。すぐに安寿は立ち上がって、台所へ逃げるように走って行った。麦茶を一気に飲み干した航志朗も立ち上がり、深呼吸をしてから台所に向かった。

 台所では安寿が額に汗を浮かべて大鍋の中身をレードルでかき混ぜていた。キッチンテーブルの上にはカレールーの箱が置いてある。航志朗は安寿の後ろに立った。安寿は胸がどきっとして、そのままの姿勢で身体を硬直させた。航志朗は安寿を後ろからゆっくりと抱きしめた。またたく間に安寿は全身の力が抜けていき、航志朗にその身を任せる。握っていたレードルを手の力が抜けて手離し、ぐつぐつと沸騰した鍋の中にレードルが取り残された。無言で航志朗は手を伸ばしてガスを止めた。そして、安寿を後ろからしっかりと抱きしめて、「安寿、……会いたかった」と航志朗は声を絞り出すように言った。安寿は航志朗の懐かしい匂いに包まれて目を閉じた。

 航志朗はエプロンをしたままの安寿を抱き上げると、サロンのソファに連れて行った。そして、安寿をソファに横たえて覆いかぶさった。安寿は顔が真っ赤になって、心臓が口から飛び出そうなくらいどきどきした。それから航志朗の顔が近づいてくると、安寿は航志朗に叫ぶように言ってしまった。

 「航志朗さん、ごめんなさい! 実は、私、キスされてしまいました!」

 「ん?」

 思わず動きを止めた航志朗は、安寿の目に涙がたまり始めていることに気がついた。落ち着いた声で航志朗が言った。

 「安寿、何があったんだ? 俺に話してくれ」

 「はい……」

 安寿は航志朗に二週間前に起こった出来事を話し始めた。一学期の終業式の日、安寿と莉子、蒼と大翔の四人は、皆で夏休みに美術展を観に行く約束をした。安寿と莉子はよく二人で休日も会っていたのだが、四人で一緒に出かけるのは初めてだった。

 その日の午前中、莉子は地下鉄を乗り換えて待ち合わせの駅に向かおうとすると、駅のホームでばったりと大翔に会った。ふたりが並んで電車を待っていると、突然、大翔が莉子に言い出した。

 「蒼ってさ、安寿さんのことが好きなんだよな。一年の時からずっと」

 少しも驚かずに莉子が言った。

 「やっぱりそうなんだ」

 「莉子さん。安寿さんって、彼氏とか、好きなやつっているのか?」

 「うーん、わかんない。そういえば、安寿ちゃんと恋バナってしたことないんだよね……」

 「なんだよ、それ。まともな十八の女子とは思えないな」

 「何よ! 大翔くんったら、失礼ね!」

 小柄な莉子は大柄な大翔を大げさに見上げて上目遣いでにらんだ。大翔は莉子の可愛らしい視線に思わず胸がどきっとした。あわてて目線を上に外した大翔はふと思いついて、莉子に提案した。

 「あのさ、莉子さん。蒼と安寿さんを二人きりにさせてあげようよ」

 「ええっ、どうやって?」

 大翔は大きな身体を傾けて莉子の耳元に手を当てて、その場で思いついたささやかな作戦を莉子に小声で話した。莉子はくすぐったくなって身をよじり、両腕でお腹を抱えて笑ってしまった。大翔は可愛らしい小花柄のクリームイエローのワンピースを着た莉子のふくよかな胸元を見て、また胸が大きく弾んでしまった。

 駅のホームで電車を待っていた安寿は、黒革のショルダーバッグの中のスマートフォンが鳴っていることに気づいた。莉子からだった。莉子は少し口ごもるように言った。

 『安寿ちゃん、ごめんね! 私、今日、行けなくなっちゃった。ちょっと、急な用事が入っちゃったの。本当にごめんねー。蒼くんと大翔くんによろしくね』

 安寿は了解したが思った。
 
 (えっ、もしかして、男子二人と行くことになったの……)

 一方、自宅から駅に向かっていた蒼はボトムスのポケットに入っていたスマートフォンが振動していることに気づいた。大翔からだった。大翔は莉子と同じことを言った。

 蒼は了解したが思った。

 (あっ、もしかして、女子二人と行くことになったのか……)

 安寿と蒼は待ち合わせの駅に着くと、莉子も大翔も来られなくなって二人きりになってしまったことに気がついた。しばらくふたりの間に気まずい空気が流れたが、結局、安寿と蒼はふたりで展覧会に行くことにした。

 ここまで安寿からその話を聞いた航志朗は、腕を組んで目線を上に向けて思った。

 (その二人の友人たちにはめられたんだな……)

 「で、その後どうしたんだ、安寿?」

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