今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿が清華美術大学付属高校に入学してから、二か月が経った。
 
 高校は安寿と恵が暮らす団地から電車で片道一時間半はかかるが、都心から離れた郊外に位置するので、行きも帰りもたいていは電車の座席に座ることができる。好きな本を読んでいれば、あっという間に着いてしまう。
 
 美術大学の付属高校ということで、どんな生徒たちが集まるのだろう、自分はそのなかに入っていけるのだろうかと、入学前、安寿はとても不安だった。だが、それはまったくの思い過ごしであった。
 
 クラスメイトたちは、皆それぞれに個性的で自由な生徒たちばかりだ。仲良しグループがいくつかできてはいるが、ひとりでマイペースに過ごしている生徒もいる。

 安寿が高校に入学したばかりの時に一番驚いたのは、高校で最初にできた友人が男子だったことだ。
 
 入学式の翌日の初めての昼休みに周りを見回しても誰にも誘ってもらえず誰も誘えず、とりあえずひとりで昼食を食べようと自分の席で自作の弁当を開けた時、おもむろに前の席にその男子生徒が座り、「白戸、一緒に食べよう」と誘ってきた。中学では男子生徒と親しく話をすることがなかった安寿は飛び上がるほど驚き、同時に大いに警戒もしたのだが、その男子生徒、星野蒼(ほしのあおい)は「これから、よろしく」と切れ長の目を細めて、校内の購買部で購入したクロワッサンサンドを安寿の目の前でおいしそうにかじった。
 
 その後、もうひとりの男子生徒の宇田川大翔(うだがわはると)と、女子生徒の原田莉子(はらだりこ)が加わり、四人で一緒に過ごすことになった。親しく話をしていくうちに、蒼はファッションデザイナーを目指していて、莉子は絵本作家を目指していることがわかった。京都から上京して清華美術大学の大学生の姉とふたりで暮らしている大翔は、「僕は、ビジュアルアーティストとして世界に進出する!」とその時豪語したが、このままだと実家の染色業を継ぐことになるのでとりあえず言ってみたと、後日述懐していた。

 安寿はといえば、彼女が美術を学ぶ理由は「絵を描くことが好きだから」ということしか思い浮かばなかった。それは亡き母と一緒に絵を描いたという、幼少の頃の安寿にとっての数少ない母との思い出による。しかし、それは安寿に自らの幼稚さを思い知らせ、自己嫌悪におちいらせた。「絵を描くことが好き」だなんて、幼稚園生にだって言えることだ。叔母の恵に無理をさせて学費の高い私立高校に通わせてもらっているというのに。

 そして、美術の実習が本格的に始まると、安寿は周りの他の生徒たちと比べてしまい、自分の画力に自信を持てなくて深く落ち込んだ。さすが美術大学付属高校に集まってくる生徒たちだ。基礎画力のレベルがとても高く、課題も素晴らしい作品ばかりだ。安寿は絵を描く手が止まってしまい、とにかく課題を期限までに提出することに精一杯のありさまだ。でも、絶対に恵には相談できない。余計な心配をかけたくないからだ。
 
 それに実習には、さまざまな画材が必要になる。学費の他に画材代もけっこうかかる。これ以上、恵に金銭的負担をかけたくない安寿は、恵に内緒でアルバイトをしようと考えはじめていた。

 高校に入学してから持ち上がってきたいろいろな問題を、誰にも相談できずにひとりで悩み、安寿は出口の見えない自らの画力に対する劣等感を抱え込んでしまっていた。そんな安寿を知ってか知らずか、初めての校内品評会で、安寿は美術教諭から手厳しい評価を受けた。休み時間に肩を落とした安寿の隣に座った蒼は、落ち込んで暗い顔をした安寿にさりげなく言った。

 「安寿、さっき先生にかなりディスられてたけどさ、おまえの絵、……俺は好きだよ。人体比率のバランスとかパースとかめちゃくちゃなのに、凄まじい存在感があるんだよな。なんていうか不思議な魅力があるよ、おまえの絵には」

 そう言うと安寿から目線をそらして、蒼は少し頬を赤らめた。

 目を潤ませた安寿はうつむいて言った。

 「……ありがとう、蒼くん」

 安寿は蒼が彼の言葉で励ましてくれることがありがたかった。蒼が自分の名前を呼び捨てにしたり、「おまえ」と呼ばれることに、はじめはかなり嫌悪感を持っていたが、いつのまにか慣れてしまった。

 高校にはいちおう制服があるが、自由な校風のために私服も認められている。いつも私服の蒼はファッションセンスが抜群でおしゃれだ。そのうえ背が高く整った顔立ちで、成績も良い。実家はファミリー企業を経営していて、蒼の父はその社長をしていると大翔から聞いた。当然のことではあるが、蒼は女子生徒たちに人気がある。こんなみそっかすの自分と一緒に学校で過ごしてくれる蒼の気持ちが、安寿にはまったくわからない。

 莉子は誰もがその名を知っている老舗和菓子店の末っ子で、毎日、当主の父親が愛娘のために手作りする、それはそれは芸術的な弁当を持ってくる。安寿は莉子の弁当を見せてもらうのが楽しみだ。ときどき味見をさせてもらうが、味見と称するには申しわけないほどの、見た目にたがわない本格的な味にとても感心してしまう。

 「莉子ちゃんのお父さんって、すごい! 和菓子のプロフェッショナルなだけじゃなくて、お料理上手でもあるんだね」

 自分の父親の顔を知らない安寿は、「お父さん」という言葉にいつも心の細かいひだの引っかかりを感じる。

 「うちのお父さん、私が幼稚園生の時は、ものすごくど派手なキャラ弁つくっていたの。本当は恥ずかしくて嫌だったんだ。でも、ただでさえ朝早く起きなくちゃいけない忙しい仕事なのに、今も私のお弁当を作ってくれていて、まあ、感謝しなくちゃね」

 莉子は肩をすくめて微笑んだ。

 「莉子さん(はん)は、安寿さん(はん)みたいに、自分でつくればいいんじゃないか?」

 大翔は本日五個目のコンビニエンスストアのおにぎりをほおばりながら言った。大翔はラグビー部で鍛えている筋肉質のたくましい外見からは全然想像もできない、少々京都弁の入った柔らかい口調で話し、そのギャップがとても可愛らしい。いつも大翔本人は「さん」と発音しているつもりなのだが、周りにはどうしても「はん」に聞こえる。

 莉子は大翔に激しく両手を振って言った。

 「むりむり。お母さんに似て、私、朝に弱いんだもん」

 安寿はこのなにげない友人たちとの会話に救われていることを感じる。美術の実習は正直なところ心底つらいが、この高校に入学できて本当によかったと安寿は思った。 

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