今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 五月下旬になって、安寿と恵が岸家を訪問する日がやってきた。その日は朝から雨が降っていた。ふたりは朝早くに起きて、身支度を入念に整えていた。ところが、急に予定が変わってしまった。
 
 午前十時にふたりが住む団地まで岸家の車で迎えに来てもらう手筈だったが、その直前に恵が出版社から急遽呼び出されて、岸家に行くことができなくなってしまった。こちらの都合で予定をキャンセルするのはたいへん申しわけないので、仕方なく安寿ひとりで岸家を訪問することになった。
 
 恵は伊藤に連絡して謝罪し、安寿だけが伺うことを伝えた。そして、安寿にはくれぐれも失礼のないようにと釘をさし、あわただしく出版社に向かって行った。

 安寿が約束の時間よりも早めに団地の入口で待っていると、午前十時五分前きっかりに、岸家の黒塗りの車が到着した。運転席から伊藤が降りて来て丁寧にあいさつをして、傘を傾けながら後部座席のドアを開けた。そして伊藤は安寿を車に丁重に乗せた。安寿は自分の傘が車内を濡らしてしまわないかと心配になった。古い型の車のようだがよく手入れされていて、安寿はとても緊張してしまった。
 
 車中で伊藤は安寿を気遣うような温かい態度で接し、安寿に数項目の質問をした。まず車酔いをするかどうかからはじまって、アレルギーの有無、好きな食べもの、嫌いな食べもの、好きな色、はたまた猫舌かどうかまで尋ねられた。執事といわれてもまったくぴんとこなかった安寿だったが、失礼のないようにひとつひとつ丁寧に回答した。

 雨の日の週末で道が混んでいたこともあり、一時間近くかかって岸家の前にたどり着いた。

 安寿は傘をさしながら、想像をはるかに超えた岸家の自邸を前に立ち尽くしてしまった。

 (……なんて美しい家なの!)

 霧にけぶる大きな森を背景にした、それはそれは美しいクラシックな白い洋館だ。葉が豊かに生い茂るコナラの樹々に囲まれた広い庭には青々とした芝生が広がっている。エントランスへと続く玄関アプローチには乳白色の大理石が敷かれていて、小雨にしっとりと濡れている。伊藤は「先先代が昭和初期に建てられました。国の登録有形文化財になっております」とこともなげに言った。

 エントランスの前には、ロイヤルブルーのタイトワンピースをまとった華鶴が待ち構えていた。

 「安寿さん、いらっしゃい! またお会いできて嬉しいわ。さあ、どうぞ遠慮なく入って!」

 優雅な笑みを浮かべた華鶴は安寿の手を取った。その手のひやっとした冷たさに、ずっとここで私を待っていてくれたのだと安寿は申しわけない気持ちでいっぱいになった。

 岸家の格調高い邸宅の中に一歩踏み出すと、磨き込まれた木の匂いがして時間がさかのぼったような感覚になった。そのすみずみまで清められた静謐な空間に思わず安寿は背筋が伸びた。

 庭に面した大きな窓があり、絵画や彫刻が優雅に飾られたサロンを通って食事室に案内された。サロンには黒光りするグランドピアノが置いてあった。ふと安寿は誰が弾くのだろうと思った。食事室には黒川画廊に置かれていた家具と同じ色のダークブラウンの大きなダイニングテーブルが置いてあった。華鶴にうながされて眺めのよい窓際の椅子に安寿は座った。さっそく伊藤がコーヒーと紅茶を運んで来た。安寿はコーヒーが苦手だと、先ほど伊藤に話したばかりである。華鶴がいくぶん緊張ぎみの安寿に微笑みながら言った。

 「安寿さん、お腹が空いたでしょう? まずランチにしましょうね。咲さん、お願いします」

 食事室の奥のドアから、白いエプロンを身につけたグレーヘアの小柄な女が出てきた。女は大きめの藤のバスケットに入ったいろいろな種類のサンドイッチとカボチャの温かいスープ、オレンジジュースを木製のワゴンにのせて運んで来た。その女は安寿を優しいまなざしで見つめて微笑んだ。あわてて安寿は会釈した。

 「咲さんがおつくりになったサンドイッチ、絶品よ。さあ、安寿さん、ご遠慮なく召しあがってくださいね」

 そこへ岸がやって来た。黒川画廊で会った時と同じく白いオックスフォードシャツに柔らかいベージュのスラックスを履いている。品のよい着こなしだ。先刻まで絵を描いていたのだろうか、ラフに腕まくりをしている。岸は目を細めて安寿を見て言った。

 「安寿さん、ようこそ。先日は個展にお越しいただきまして、ありがとうございました。今日は雨の中、妻のわがままに付き合わせてしまって申しわけないです」

 岸は可愛らしく夫をにらんだ華鶴の隣に座った。伊藤が岸の紅茶も運んで来た。華鶴が岸の前にティーカップを置いて言った。

 「本当はこのランチを庭園のテラスでいただくつもりだったのよ。ピクニックみたいで安寿さんに楽しんでいただけるかしらと思ってね。でも、雨が降ってしまったわね」

 「華鶴さん、今日は残念でしたが、またいらっしゃっていただければよろしいのではないでしょうか。もちろん、安寿さんのご都合がよろしかったらですが」

 「まあ、宗嗣さんのおっしゃるとおりね! 安寿さん、必ずまたいらしてね。約束よ!」

 目の前の息の合った夫婦の上品な会話を聞いて、安寿はまた心から感心してしまった。

 (本当に素敵なご夫婦……)

 昼食後サロンに移ってゆったりとしたソファに座り、岸家の家政婦である咲の手作りのフルーツがたくさん入ったロールケーキを口にした。ふわっと柔らかい口当たりと甘い味覚に緊張がほどけてくる。絵画や彫刻が飾られた美しいサロンでのティータイムに、安寿は叔母の言いつけをすっかり忘れてうっとりとしてしまった。

 (登録有形文化財のお屋敷に住むなんて、どんな気持ちがするのかな……)

 失礼なふるまいだとわかっていても、つい安寿はサロンを見回してしまった。よく見ると太い柱にはアール・ヌーヴォー調の花や植物の模様が控えめに彫られていて、サロンの雰囲気をさらに優雅にしている。
 
 華鶴は今日も高校の制服を着ている安寿を見て、「本当に懐かしいわ。宗嗣さんは信じられないかもしれないけれど、私だって昔は安寿さんみたいに可愛い女子高生だったのよ」と夫に面と向かって言った。

 安寿の高校生活の様子を華鶴は知りたがった。安寿は岸夫妻の温かいもてなしにすっかり緊張がゆるんでしまっていた。つい安寿は自分の画力の力不足をとてもつらく思っていることや、画材代がかかるので家計を助けるためにアルバイトを探していることまで口に出してしまった。 

 すぐに安寿は後悔した。

 (私ったら、なんてつまらないことを言ってしまったの。恥ずかしい……)

 安寿は顔を赤らめて下を向いた。

 ずっと黙って安寿の話を聞いていた岸が、安寿を見て穏やかに言った。それは静かな湖に白い花びらをそっと浮かべるような慎み深い口調だった。

 「私は、画力とは絵を描こうとする情熱と意志の力そのもので、画力が足りるとか足りないとか判断することは、まったく意味がないと思います。絵を描きたいという強い想いが、絵を描く美しい力になる。その美しい力の(すべ)、……美術とは、よく言ったものですね」

 安寿は岸の言葉を心に染み入るように反芻した。岸先生はきっと私を励ましてくれているのだと感じる。安寿は目の奥が熱くなった。

 (私のなかに、岸先生がおっしゃる「美しい力」があるといい。岸先生は本当に心優しいお方だ)

 するとしばらく思案していた華鶴は何事かをひらめいた様子で、実に楽しげに安寿に提案した。

 「私、いいことを思いついたわ! お忘れかしら? 私たちの目の前に画家先生がいらっしゃるじゃないの! 安寿さん。あなた、宗嗣さんに絵の描き方を習えばいいわ。宗嗣さんは若い頃、大学の講師をしたことがあるのよ」

 岸は困惑した表情をして華鶴を見た。

 (岸先生は大学の講師をされていたんだ……)

 安寿は意外に思った。

 華鶴は安寿の隣に座り直して言った。

 「それに、安寿さん、我が家でアルバイトをしたらどう? そう。宗嗣さんのモデルになるっていうのはどうかしら? 私たち、一石二鳥、いいえ、三鳥以上になるわ。安寿さんが我が家に通ってくださったら、私はおしゃべりの可愛いお相手ができるから嬉しいし。ね、おふたりとも、素敵なアイデアだとお思いにならない?」

 安寿は華鶴の突然の申し出に驚愕して、頭のなかが真っ白になった。
 
 (私が岸先生のモデルに! まさか、本当に? でも岸先生は風景画家のはずなのに人物画はお描きになるの? それにしても、突然、絵のモデルにって言われても、こんな私なんかに務まるの? もちろん、ここでアルバイトできるのならとてもありがたいけれど、絶対に恵ちゃんは反対するだろうな)

 頭がくらくらするほど安寿は思いをめぐらせた。

 華鶴は黙り込んでしまった安寿を優しく見つめて言った。

 「安寿さんは恵さんが許してくださるかどうか心配しているのね? だいじょうぶよ、私に任せて」

 岸は何も言わなかった。奥に控えていた伊藤が伏し目がちに新しいコーヒーと紅茶を持って来た。華鶴は湯気の立つコーヒーをひとくち飲んだ。

 「そうだわ。安寿さん、せっかくだから、宗嗣さんのアトリエをご覧になったら?」

 「えっ、岸先生のアトリエですか? あの、よろしいのでしょうか?」

 華鶴は「ええ、もちろんよ。どうぞ、おふたりでいってらっしゃい」と言い、安寿に微笑みかけた。

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