今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 朝食が済んでから、そのままふたりはホテルの外に出た。霧は匂いまで覆っていたのだろうか、昨日は感じなかった草いきれと家畜の匂いが微風に乗って漂ってきた。地面は朝露にしっとりと湿った草でふかふかしている。名前のわからないたくさんの高原植物が可憐な花を咲かせていた。安寿は白いリネンワンピースの裾が汚れてしまうのを気にも留めずに、しゃがんで草花をじっと観察していた。航志朗はその光景を見て、似たものどうしが見つめ合っているようで可笑しくなった。

 いつもより日差しが強いように感じる。太陽に近いのだ。ふと安寿は振り返って航志朗を見上げた。航志朗は澄み渡る空の彼方を見つめている。航志朗の視線の先に目をやった安寿は急に胸がうずいて、両膝を抱えながらうつむいた。だが、安寿はそれを振りきるように航志朗に言った。

 「航志朗さん、ここに連れて来てくださって、ありがとうございました」

 航志朗は目線を柔らかく落として訊いた。

 「ここが気に入った?」

 安寿は笑顔でうなずいた。

 「それはよかった。今夜もここに泊るか?」

 安寿はそれはできないと思った。航志朗は明日の夕方にはシンガポールに戻るのだ。

 「いいえ、家に帰りましょう」

 安寿は岸家に帰るつもりで言った。だが、航志朗はもう一つの家のことを言った。

 「じゃあ、今夜は二人きりでマンションで過ごそう」

 恥ずかしくてどうしようもない気分になったが、安寿はうなずいた。

 ホテルのスイートルームに戻ると、安寿は自分の荷物をまとめた。とはいっても、安寿の荷物は少ないので、それはすぐに終わった。

 その時、いきなり航志朗が後ろから安寿を抱きしめた。まだ航志朗の抱擁に慣れていない安寿はうつむいて身体を硬直させた。航志朗は安寿の肩まで伸びた黒髪を耳の後ろにかけて、その耳たぶに軽く唇を触れてストレートに言った。

 「安寿、今、君とキスしたい」

 「……こんな朝早くからですか?」

 安寿の両耳はもう真っ赤になっている。

 「今しておかないとマンションに帰るまでおあずけになるだろ。これから俺はドライバーになるんだから」

 航志朗は安寿の顎を右手で引き寄せて、そっと安寿に口づけた。安寿はすぐに全身の力が抜けて航志朗にもたれかかった。腕の中に安寿を抱きしめた航志朗は、安寿のすべてを自分だけのものにしたいと心の底から欲した。また航志朗は安寿に唇を重ねようとした。だが、急に航志朗は強い眠気を感じた。まぶたが重くなってきた航志朗は、安寿の肩に頭を置いてつぶやいた。

 「不思議だな。君を抱きしめると、すぐに眠くなる」

 「今朝、早起きしたからですよ。チェックアウトは何時ですか?」

 「正午だ」

 安寿は時計を見た。まだ午前八時半だ。

 「航志朗さん、少しベッドで眠りましょうか?」

 だんだん意識がぼんやりとしていくなかで、ふっと航志朗は力なく笑って言った。

 「安寿、……ベッドに戻りましょう、だろ」

 安寿を抱きしめたまま航志朗はベッドに入った。そして、航志朗は安寿の腰に手を回してその胸に顔をうずめて眠りに落ちた。航志朗の寝息に耳を傾けて深いため息をついた安寿は、航志朗のまっすぐな黒髪をそっとなでながら思った。

 (航志朗さんは見た目よりも、ずっと疲れているのかもしれない)

 思わず安寿は航志朗の額にゆっくりと口づけた。航志朗が自分にしてくれたように。そこはひんやりと冷たい。安寿は胸の内で問いかけた。今の安寿が一番知りたくないことを。

 (あと何時間、航志朗さんと一緒にいられるんだろう……)

 そして、安寿は気づいてしまった。航志朗の身体が冷えきっていることに。そういえば、航志朗の手は出会った時からずっと冷たかった。キスしてきた唇も。思いもよらない衝撃を受けた安寿に直感が告げた。

 (航志朗さんは、心が冷えきっているのかもしれない。きっと、子どもの頃からずっとひとりぼっちだったんだ。あの広いお屋敷の中で)

 見るまに胸が苦しくなって涙が出てきそうになるのを必死で我慢しながら、安寿は航志朗を優しく抱きしめた。このひとときだけでも航志朗を温めてあげたいと安寿は心の底から切に願った。

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