今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その日の朝食はホテルのレストランで食べることにした。部屋に運んでもらうこともできたが、安寿が望んだのだ。見晴らしのよいレストランは午前六時からオープンしていた。早朝にもかかわらず、ご来光を拝んで元気になった客たちや早朝の散策を終えた客たちでにぎわっていた。ビュッフェ形式の朝食は、数種類の焼きたてのパンや野菜のスープ、温野菜のサラダ、各種フルーツなどが並んでいた。ふたりはオープンテラスの席に向かい合って座った。足元には電気ストーブが置いてあって寒くはない。

 すっかり安寿は朝食を食べることを忘れている。じっくり考えて選んだパンやホールスタッフに注いでもらった紅茶には手をつけずに、安寿はずっと外に広がる光景を眺めていた。昨日は真っ白な霧に覆われて何も見えなかったのだ。安寿の瞳は何かを吸い込むようにゆらゆらと光っていた。チョコレートがはさまったクロワッサンをかじりながら航志朗は安寿をそっとしておいた。焼きたてのパンや湯気の立つ紅茶が冷めつつあっても、今の安寿にとって必要なのは温かい食べものや飲みものではなく、目の前の光景そのものなのだ。

 (そういえば……)と航志朗は思った。

 (こういう時に、人は写真を撮りたくなるものなんじゃないか)

 現にレストランの中や外のあちらこちらで、スマートフォンから本格的な一眼レフカメラまでのさまざまなガジェットを使って写真を撮影している宿泊客たちの姿が当然のように見られる。航志朗は安寿がスマートフォンで写真を撮っているところを見たことがない。(そういえば……)とまた航志朗は思った。

 (俺たちは、二枚しか一緒に写真を撮っていないな)

 ふと思い立った航志朗はすぐにスマートフォンを取り出して、目の前の安寿の姿を撮った。そのシャッター音に気づいて、安寿は航志朗をまっすぐに見つめた。その瞬間、航志朗はまたスマートフォンをタップした。安寿は顔を思いきりしかめて文句を言った。

 「もうっ、いきなり撮らないでください!」

 航志朗はてらいなく言った。

 「朝日に照らされた君がとてもきれいだから、撮ってもいいだろ?」

 「私は写真を撮るのも撮られるのも好きではないんです」

 「へえ、絶滅危惧種だな、君は。今どき写真なんていとも簡単に撮って、一瞬で世界じゅうの人びとに公開できるのに。まさか大昔の人みたいに魂を抜かれるとか思っているのか?」

 くすくすと航志朗が面白そうに笑った。

 安寿は少しむっとした表情になった。そして、やっと思い出したように冷めてしまった朝食を食べはじめた。熱い紅茶はもはやアイスティーになっていた。笑みを浮かべた航志朗はコーヒーを飲みながら頬杖をついて尋ねた。

 「安寿、どうして君は写真が嫌いなんだ?」

 小さくカットされたスイカをフォークで刺したままそれについて少し考えてから、安寿は答えた。
 
 「写真は自分の目で直接見た光ではないからです。スマートフォンのフィルターでいくらでも加工できてしまうし、それって不自然だと思います。それに写真は今が形になって残るので、過去にとらわれてしまいそうで嫌なんです」

 「ふうん。たぶん君は過去に執着するのが嫌いなんだな。まだ十八年しか生きていないのに」

 「……そうかもしれません」

 航志朗は自分のスマートフォンを繰って出てきた画像を安寿に見せた。急に安寿は目を見開いて真っ赤になった。それは、ふたりが婚姻届を提出したあの夜に、役所の夜間受付にいた男に撮ってもらった写真だった。航志朗はにやりと笑みを浮かべて言った。

 「なかなかよく撮れているだろ? いい記念になったな」

 何も答えずに安寿はうつむいて思った。

 (いつか消すことになる画像でしょ?)

 安寿は胸が張り裂けそうになった。

 (わかってる。過去にとらわれるから、つらい気持ちになるんだ)

 そこへホールスタッフがやって来て、安寿の空になったティーカップに熱い紅茶を注いだ。そのアルバイトの大学生らしい若い男性スタッフは、航志朗のスマートフォンを見て気を利かせて言った。

 「おふたりの写真をお撮りしましょうか?」

 思わず安寿は航志朗の顔を見た。航志朗は口角を上げて安寿の顔をのぞき込んでから、スタッフに向かって言った。

 「ありがとう。お願いします」

 航志朗はスマートフォンをスタッフに手渡してから立ち上がり、安寿の隣に座った。そして、どんな顔をしたらいいのかと困惑ぎみの安寿の腰に手を回して、その耳元にささやいた。

 「安寿、三歳の七五三の時みたいに、可愛い仏頂面をしろよ」

 安寿は思わず吹き出して笑った。かつてその仏頂面をした三歳の安寿の写真は白戸家の家族の笑いの種だった。さんざん祖父や叔母にからかわれた。

 その瞬間を男性スタッフは航志朗のスマートフォンで撮った。男性スタッフの目の前で、安寿と航志朗は見つめ合って笑った。そのふたりの姿もしっかりとスマートフォンに収まった。男性スタッフは目を細めてまぶしそうにふたりを見つめた。航志朗はスマートフォンを受け取って礼を言った。その若い男性スタッフは、空になったステンレスのティーポットを持ってバックヤードに戻りながら、固く決心した。

 (大学の後期が始まったら、絶対、同じゼミの彼女に告白する!)

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